「あるもの(ト・エオン)」とは何か?九つの本性規定による説明
「あるもの(to eon、ト・エオン)」とは何か?
ということについては、
「パルメニデスの哲学の概要」でも少し書きましたが、
今回は、
パルメニデスにおいて、
「あるもの(ト・エオン)」すなわち、
存在そのものがどのようなものとして捉えられているのか?
ということについて、
より詳しく分析してみたいと思います。
「真理の道」における「あるもの」の道しるべ
パルメニデスは、その叙事詩のなかの
「真理の道」において、
「あるもの(ト・エオン)」すなわち、存在そのものには、
どのような性質・属性があるのか?
ということについて、
その探究の道しるべ(道標)を列挙していくという形で
語っています。
その道しるべが語られている部分について、
前に引用した部分の前後も含めて
引用し直すと、以下のようになります。
「あるの道」には、
非常に多くの標がある。
すなわちいわく、
あるもの(ト・エオン)は、
不生にして不滅であり、全体にして一様であり、
完全にして揺るぐことのない、
窮まるところなきものである。
それはかつてあったこともなく、
いずれあるであろうこともない。
なぜならば、それは今あるのだから。
一挙に、全体として、
一つにつながり合うものとして。…
それは、完結しており、どの方から見ても
まるい球に似ている。…
なぜならば、それは、どの方から見ても
自らと等しくあり、また均しく縛められているがゆえに。
(パルメニデス・断片8)
この語りのなかで挙げられている
「あるもの」の道しるべ、
すなわち、
存在そのものの本性規定について、
類似したことを語っている部分を
項目ごとにまとめて分類し直すと以下のようになります。
①「不生にして不滅であり」
②「揺るぐことのない」
③「全体にして一様であり」「均しく縛められている」
④「窮まるところなきもの」
⑤「完全にして」「完結しており」
⑥「一挙に、全体として、一つにつながり合う」
⑦「それはかつてあったこともなく、いずれあるであろうこともない。なぜならば、それは今あるのだから。」
⑧「自らと等しく」
⑨「まるい球に似ている」
以上の九つの項目について、
それぞれの記述が、
「あるもの(ト・エオン)」のどのような本性規定を示しているのか?
ということについて、
一項目ずつ検討・分析していきたいと思います。
「あるもの(ト・エオン)」の本性規定
まず、
①の「不生にして不滅」については、
その表現の通り、
何も生成も消滅もしないという意味になりますが、
いかなる生成も消滅も起こらないということは、
新たに別の性質が生じて付け加わることも、
すでにある性質が失われることもないということになるので、
「あるもの」においては、変化も生じないということになります。
つまり、①は、「あるもの」の
生成・変化・消滅の否定を示す本質規定であるということです。
次に、
②の「揺るぐことのない」については、
「揺るぐことのない」=移動したり運動することはない
ということなので、
不動性という本性規定を示していると考えられます。
③の「全体にして一様」「均しく縛められている」については、
「一様」とは、その表現の通り、
すべてが均一で同質なものとなっている状態のことと捉えられます。
そして、
「縛められる」とは、縄や紐などで束縛されている状態のことを指す表現ですが、
ここでは、「均しい縛め」として、「あるもの」全体が
同一の規定を受けているという均一な規定性を示していると考えられます。
つまり、③は、「あるもの」の
均一性・同質性という本性規定を示しているということです。
これに対して、
④の「窮まるところなきもの」の方は、
少し解釈の仕方が難しく、
「窮まる」とは、限界に達する、尽きるといった意味を指す表現なので、
「窮まるところなきもの」とは、限界のない、果てしないもの、すなわち、
無限性として捉えることもできると考えられますが、
これを、
質としても無制限・無規定な状態と解釈すると、
③で述べた「あるもの」の均一な規定性という本性規定との
矛盾が生じてしまうことになるので、
この部分は、
量として尽きることがない、すなわち、無尽蔵
といった意味で解釈する方が整合的と考えられます。
つまり、④は、「あるもの」の
量として無尽蔵という本性規定を示していると解釈できるということです。
次に、
⑤の「完全にして」「完結しており」については、その表現の通り、
欠けることがなく完全で自己完結した状態と捉えればよく、
これは、「あるもの」の
完全性・完結性という本性規定を示していると考えられます。
また、
⑥の「一挙に、全体として、一つにつながり合う」については、
全体が一つにつながり合って連続していて分割されることがないという意味で、
「あるもの」の連続性・不可分性を示していると考えられます。
そして、
⑦の「それはかつてあったこともなく、いずれあるであろうこともない。なぜならば、それは今あるのだから。」とは、すなわち、
「あるもの」は過去や未来といった時間規定を超えて、
常に現在においてあり続けるということであり、
言わば、アウグスティヌスの「永遠の現在」※のように、
時間によって規定されない、時間概念を超越した
無時間性を示しているということです。
※ アウグスティヌスは、過去とは、過去についての現在の記憶に過ぎず、未来とは、未来についての現在の予期に過ぎないというように、過去や未来といった時間区分は本来的な意味では存在せず、ただ現在のみがあると考えました。そして、神においては、永遠の内に、時間を超えてすべての存在の全体が現前するという意味で、神は「永遠の現在」の内にあると考えました。
次に、
⑧の「自らと等しく」とは、
常に自分自身として一定の状態としてあり続ける、つまり、
自分自身として持続し続けるということであり、
これは、「あるもの」の
自己同一性という本性規定を示していることになります。
そして、最後に、
⑨の「まるい球に似ている」という表現において、
「あるもの」とは、
全体が均一にして、一つに完結した
真球(sphairos、スパイロス、完全な球体)
のようなものであるという比喩が語られて、
「あるもの」に関する道しるべの説明の段が終わります。
・・・
以上の分析をまとめると、
パルメニデスにおいて、
「あるもの(ト・エオン)」すなわち、存在そのものとは、
①生成・消滅・変化しないもの
②不動性
③均一性・同質性
④無尽蔵
⑤完全性・完結性
⑥連続性・不可分性
⑦無時間性
⑧自己同一性
⑨真球に似ている
という九つの本性規定をもったものとして
捉えられているということになります。
最後に、
これらの本性規定をすべて一文にしてまとめ直すと、
パルメニデスの「あるもの」とは、
不生にして不滅、無変化なものとして、量においても尽きることがなく、
不動であり、連続・不可分にして、
無時間性において常に自己同一性を保持し続ける
全体が均一で、一つに完結した
丸い球のようなものである
ということです。
・・・
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