親マケドニアのイソクラテスと反マケドニアのデモステネスの対立とアテナイ市民の選択:『フィリッポス』と『フィリッピカ』
前回までに書いてきたように、マケドニア国内における軍制改革と中央集権化を成し遂げたのち、ギリシア世界の覇権を握ることを目指すことになったマケドニアの王フィリッポス2世は、
紀元前356年にはじまる第三次神聖戦争と紀元前339年の第四次神聖戦争というギリシア世界における二度にわたる宗教戦争に介入することによって、ギリシア本土へと軍を進めていくことになります。
そして、フィリッポス2世率いるマケドニア軍がデルポイの位置するポーキス地方を通ってギリシア中部にあたるボイオティア地方へと進み、大規模な軍勢がアテナイの位置するアッティカ地方へもいよいよ迫ろうとするなか、
アテナイ本国では親マケドニア派と反マケドニア派とに国民が真っ二つに分かれる激しい論争が繰り広げられていくことになります。
親マケドニアのイソクラテスの『フィリッポス』の公開書簡におけるアテナイの老賢者の言葉
マケドニアの台頭とギリシア世界への影響力の拡大に対して、その力に無理して抗わずにマケドニアの指導のもとにギリシア諸国が同盟を結ぶことによって和平をもたらそうとする親マケドニアの立場をとった代表的な人物としては、
アテナイ出身の古代ギリシアの修辞学者にしてソフィストとしても知られているイソクラテスの名が挙げられることになります。
金銭を対価として市民に弁論術や教養を授ける古代ギリシアの職業教師であったソフィストは、しばしば弁論の力によって真実をもねじ曲げる詭弁を用いることによって悪名を着せされることも多かったのですが、
そうしたソフィスト批判によっても有名な古代ギリシアの代表的な哲学者であるプラトンの著作のなかでも、イソクラテスについては、ソクラテスの口を借りて彼のことを讃えさせる場面が出てくるように、
イソクラテスは修辞学や弁論術に長けたソフィストとして位置づけられているとはいっても、それと同時に、哲学や政治学などの様々な分野について深い見識と教養を備えたアテナイ市民からも広く尊敬を集めていた聡明なる老賢者であったと考えられることになります。
そして、すでに紀元前380年に発表した『オリンピア大祭演説』において、ギリシア諸国が無益な抗争をやめて、互いに和解して一致団結することによって、ギリシアにとっての最大の敵である東方のペルシア帝国の征討へと向かう道を説いていたイソクラテスは、
こうしたフィリッポス2世率いるマケドニアの台頭をギリシア諸国が団結と統合へと向かう好機と捉えて、
紀元前346年に発表した『フィリッポス』と題されたマケドニアのフィリッポス2世へと宛てられた公開書簡において、
フィリッポス2世がギリシア諸国の盟主となることを要請し、ギリシア諸国の和解を成し遂げたうえで、ギリシア軍を率いてペルシア遠征へと乗り出すことを説くことになるのです。
反マケドニアのデモステネスによる『フィリッピカ』の演説とアテナイの人々の選択
そして、こうしたイソクラテスを中心とするアテナイにおける親マケドニア派の動きに対して、マケドニアの台頭とその強大な軍事力を背景としたギリシア世界への支配の拡大を自国への侵略行為と考える反マケドニアの立場をとった代表的な人物としては、
アテナイ出身の政治家にして優れた弁論家でもあったデモステネスの名が挙げられることになります。
北方でのマケドニアの台頭とフィリッポス2世率いるマケドニア軍のギリシア本土への進軍をギリシア諸都市の自由と独立が奪われかねない重大な脅威と捉えたデモステネスは、
紀元前351年に『フィリッピカ』と題された反フィリッポスの演説を行うことによって、ギリシア諸国にマケドニアの侵略に対して一致団結して対抗し、ギリシア世界の防衛に尽くすことを訴えていくことになります。
そして、こうした後世に残る名文として知られる『フィリッピカ』におけるデモステネスの演説の言葉を聞いたアテナイの人々は、
その姿にかつてのアテナイの黄金時代における民主政の完成期を築いた偉大な指導者であるペリクレスの姿を見て、アテナイの自由と独立を守るためにマケドニアの脅威に対して毅然として立ち向かうことを決意したのか、
それとも、単に、ペロポネソス戦争におけるアテナイの敗戦と荒廃を招いたアルキビアデスやクレオンといった煽動政治家たちにつき従っていた時と同じように、勇ましく好戦的な言葉に踊らされて、ただ感情的に戦いへと突き進んでいくことになったのかは定かではないものの、
マケドニアとの融和を唱える親マケドニア派のイソクラテスではなく、マケドニアに抵抗するデモステネスの言葉を聞き入れて、マケドニア軍との戦いへと乗り出していくことになります。
そしてその後、デモステネスの主導のもと反マケドニア闘争の先頭へと立つことになったアテナイの人々は、
紀元前339年にギリシア本土からは遠く離れた北東に位置する現在ではダーダネルス海峡と呼ばれているヘレスポントス海峡に面するギリシア植民市であったビザンティオンの攻防戦において正式にマケドニアに対して宣戦布告をしたのち、
それまで敵対関係にあったアテナイと並ぶギリシア本土の強国であったテーバイとの同盟を結んだうえで、
翌年の紀元前338年にギリシア中部のボイオティア地方に位置するカイロネイアの地において、新たなる同盟者となったテーバイ軍と共に、
フィリッポス2世とその息子であるアレクサンドロスが率いるマケドニアの大軍とギリシア諸都市の自由と独立をかけた最終決戦へと臨むことになるのです。