ペロポネソス戦争の終結とアテナイの無条件降伏:アルギヌサイの海戦でのアテナイ艦隊の最後の勝利と六将軍の処刑と衆愚政治

前回までに書いてきたように、紀元前431年にはじまったアテナイとスパルタを中心とするギリシア世界を二分する戦いであるペロポネソス戦争は、

過激な発言によって民衆の支持を集めたアテナイの煽動政治家の一人であったアルキビアデスによって強行されたシケリア遠征の失敗を転換点としてアテナイの側の不利へと大きく傾いていくことになります。

そしてその後、陸上の戦いにおいても海上の戦いにおいても窮地へと立たされていくことになったアテナイでは国内においても民主政治の堕落による衆愚政治が進んでいくなかで、ペロポネソス戦争における敗北と亡国への道を突き進んでいくことになるのです。

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デロス同盟からの都市の離反と最終決戦に備えたアテナイでの総力の結集

ペロポネソス戦争でのアテナイの敗北とアルギヌサイの海戦での最後の勝利

紀元前415年に、アテナイの煽動政治家であったアルキビアデスの主導によって強行されたシケリア遠征に失敗することによって、アテナイ1万人にもおよぶ重装歩兵と三段櫂船と呼ばれる軍艦の漕ぎ手となる3万人もの水兵を失うことになると、

アテナイを盟主とするデロス同盟からは、軍事的に弱体化したアテナイのことを見限って同盟を離脱し、さらには、敵方であるスパルタを盟主とするペロポネソス同盟へと寝返る都市国家が次第に増えていくことになります。

しかし、そうした敗戦の色が濃くなっていくアテナイの国内においては、民主主義の政体とそれまでに培われてきたアテナイの伝統と文化を守るために、アテナイ人全体での強い団結心が呼び起こされていくことになり、

都市国家の命運を決めることになる最後の決戦へと備えて、100隻を超える軍艦がエーゲ海の全域からアテナイ本国へと呼び集められたうえで、すべてのアテナイ市民はもちろん、本来は戦いに参加することが許されていない奴隷たちまでもが戦後における奴隷身分からの解放を条件に三段櫂船の漕ぎ手として軍艦に乗り込んでいくことになるのです。

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アルギヌサイの海戦におけるアテナイ艦隊の勝利と暴風による損害

こうして何とか100隻を超える艦隊を編成することになったアテナイの人々は、国家の命運を決める最終決戦へと赴くアテナイ艦隊を率いる将として、アテナイにおける名立たる武将たちの中で最後に残されていた将であった、

アリストクラテスアリストゲネスディオメドンエラシニデスリュシアスペリクレスプロトマコストラシュロスという八人の将軍を選出することになります。

ちなみに、こうした八人の将軍のうちの一人に名を連ねているペリクレスは、かつてアテナイの民主政を完成期へと導いたアテナイの黄金時代における指導者にしてペロポネソス戦争の初期に不運にも疫病によって命を落とすことになった同名のペリクレスの息子にあたる人物ということになります。

そしてその後、八人の将軍たちが率いるアテナイ艦隊は、エーゲ海をギリシア世界における海の覇者であるアテナイ人たちの手に取り戻すために、エーゲ海を北東へと進んでいき、

レスボス島の東に位置するアルギヌサイ諸島の近くにおいて、ペルシア帝国からの援助を受けて大艦隊を養成していたスパルタ海軍に対して決戦を挑むことになります。

こうして紀元前406年に行われることになったアルギヌサイの戦いにおけるアテナイ艦隊とスパルタの艦隊の決戦においては、ペルシアからの援助を受けて養成されたスパルタの艦隊を前にして、

アテナイの艦隊を率いる八人の将軍のそれぞれが、かつてのペルシア戦争においてギリシア艦隊の勝利を導いたサラミスの海戦における名将テミストクレスを彷彿させるような快進撃を見せることによってアテナイの側の大勝利に終わることになります。

しかし、そうした大勝利ののちの掃討戦のさなか、突如として巻き起こることになった暴風によってアテナイ艦隊では多くの船が大破してしまうことになり、

戦いには勝利したものの、アテナイ軍の側も多数の人員の命を失うことになり、暴風による混乱のなか、敗戦によって壊滅状態にあったスパルタ艦隊にも逃げられてしまうことになるのです。

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六将軍の処刑とアテナイの衆愚政治

こうして総力を結集して挑んだ最終決戦となるはずの大海戦において、戦いに勝利しながら兵力を大きく失い、敵軍を殲滅させることにも失敗したことが伝えられることになったアテナイの本国では、艦隊を率いた将軍たちの責任だけを追及する無責任な政治家や市民たちの声が高まっていくことになります。

そして、そうした状況の中、アリストゲネスとプロトマコスの二人の武将は、裁判にかけられて命を奪われることを恐れて逃亡を図ることになるのですが、

残りのアリストクラテスディオメドンエラシニデスリュシアスペリクレストラシュロス六人の将は、武人としての誇りをもってアテナイへと帰還し、裁判の場での正当な裁きを求めることになります。

しかし、民衆の耳に聞こえが良い言葉だけを語り、その感情を煽り立てていくことによって自らの求心力を高めていくデマゴーゴスと呼ばれる煽動政治家がはびこるによって民主政治が堕落して衆愚政治へと陥っていたアテナイでは、

あと一歩でペロポネソス戦争全体の形勢を逆転できるところまでたどり着きながら、ぬか喜びに終わったことに怒り狂うアテナイの市民たちの声によって、本来は戦いを勝利へと導いた功労者であるはずの六将軍が捕らえられて民衆裁判にかけられることによって全員に死刑判決が下されることになります。

こうしたアテナイ市民たちの理性を失った醜い感情のみにまかせた愚かな判決に対して、のちに自らもこうしたアテナイの民衆による不当な裁判にかけられて命を落とすることになるソクラテスだけが最後まで異議を唱え続けていたとも伝えられているのですが、

そうしたソクラテスによる異議の声は、怒り狂う市民たちの大きくて愚かな声によってかき消されてしまうことになり、ペリクレスを含むアテナイの六将軍は自分たちが最後まで命を懸けて守ろうとしたアテナイ市民たちの手によって処刑されてしまうことになるのです。

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アテナイの無条件降伏によるペロポネソス戦争の終結

そしてその後、自分たちの手によって最後に残されていた名立たる武将たちをすべて殺してしまうことになったアテナイにおいては、

もはや国を守るために立ち上がる意志と力を持った新たな優れた武将たちが現れるはずもなく、将を失ったアテナイの軍は海上においても陸上においても敗戦だけを積み重ねていくことになります。

そして、紀元前405年にトラキアとアナトリア半島とを隔てるヘレスポントス海峡に流れ込む小さな川であったアイゴスポタモイ川の河口付近で戦われることになったアイゴスポタモイの海戦において、

スパルタの名将リュサンドロスが率いるスパルタ海軍に大敗してアテナイ艦隊が壊滅することになると、エーゲ海の制海権を完全に失うことになったアテナイは、海上からの食糧の輸送ルートを断たれることによって戦意を喪失していくことになります。

そしてその後、陸上においてもスパルタ軍によって都市を完全に包囲されることになったアテナイは、その翌年にあたる紀元前404年にスパルタへの無条件降伏を受諾することになり、

こうした紀元前404年におけるアテナイの無条件降伏をもって、紀元前431年にはじまり、27年間にわたって続いていくことになったペロポネソス戦争はついに終結の時を迎えることになるのです。

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