宇宙論における強い人間原理とは何か?ブランドン・カーターおよびジョン・バロウとフランク・ティプラーにおける定義の違い
前回の記事でも書いたように1961年にアメリカの天体物理学者であったロバート・ディッケによって提唱された宇宙の年齢の可能的な範囲を人間の存在の側から限定する議論において提示されているような
宇宙論における人間原理の原型となる着想のあり方は、その後の人間原理をめぐる議論のなかで、「弱い人間原理」として位置づけられていくことになるのですが、
それに対して、
こうした人間原理と呼ばれる宇宙に関する基本原理の提唱者であるオーストラリアの理論物理学者であるブランドン・カーター自身は、こうした弱い人間原理と呼ばれる基本原理のあり方に対して、
自らが提唱する人間原理のあり方を、そうした原理のあり方がより広範囲へと適用された「強い人間原理」と呼ばれる概念として新たに提唱し直していくことになります。
ブランドン・カーターにおける「強い人間原理」の定義とは?
冒頭で述べたように、
1961年にアメリカの天体物理学者であったロバート・ディッケによって提唱されたのちに「弱い人間原理」として位置づけられていくことになる宇宙論における人間原理の原型となる着想のあり方においては、
観測者である人間の存在の側の原理に基づいて、現時点における宇宙の年齢やその内部における太陽系の位置といった宇宙における時間的・空間的位置が必然的に定まるとする考え方が提示されていくことになるのですが、
それに対して、
1973年にオーストラリアの理論物理学者であったブランドン・カーター(Brandon Carter)によって提唱されたのちに「強い人間原理」として位置づけられていくことになる人間原理のあり方においては、
そうした「弱い人間原理」において示されていた人間の存在に基づいて要請されることになる宇宙の規定のあり方が、時間的・空間的位置に関する問題だけにはとどまらずに、
宇宙全体の構造や、この宇宙において生じるあらゆる現象を成り立たせている物理法則や物理定数の存在のあり方自体が、そうした人間の存在を根拠とする原理に基づいて規定されていくことになるという考え方が示されていくことになります。
つまり、
こうしたブランドン・カーターによる「強い人間原理」の定義においては、
人間のような知的生命体の存在がいなければ宇宙は観測されることはなく、誰にも観測されることがない宇宙というのは、その存在自体が確認されることのない無に等しい存在であるとも考えられる以上、
人間によって観測されることによってその存在が確認されている現在の宇宙の構造のあり方や、それを成り立たせている物理法則や物理定数のあり方は、
そのすべてが人間のような知的生命体の存在を生み出す形へと必然的に限定されていくことになるということを示す宇宙の基本原理としての「強い人間原理」の定義が提示されていると考えられることになるのです。
ジョン・バロウとフランク・ティプラーによる「強い人間原理」の三つの解釈
そして、その一方で、
その後の人間原理をめぐる議論の中で提示されていった考え方の中には、こうしたブランドン・カーターによる定義とは少し異なる意味を持った「強い人間原理」の定義のあり方も提唱されていて、
例えば、
こうした現代の宇宙論における人間原理の代表的な論者でもあるイギリスの物理学者のジョン・バロウ(John Barrow)とフランク・ティプラー(Frank Tipler)の二人は、
1986年に彼らが二人の共著として出版した『人間宇宙原理』(The Anthropic Cosmological Principle)と題される著作のなかで、
そうした人間のような知的生命体の存在の側の原理によって宇宙全体の構造が決定されていくことになるとする「強い人間原理」と呼ばれる理念から、
インテリジェントデザイン説に基づく宇宙の創造と、観測者自身による宇宙の定立、そして、そうした観測者を起源とする多元的な宇宙論という全部で三通りの解釈のパターンのあり方を提示していくことになります。
こうしたジョン・バロウとフランク・ティプラーによる「強い人間原理」の定義においては、
まずは、
インテリジェントデザイン説に基づいて、知的生命体としての人間の存在を前提とする宇宙の存在は、そうした現在の宇宙の外に存在する偉大なる知性による知的な設計に基づいて創造されたとする
神による天地創造の議論へもつながるような古典的でシンプルな解釈のあり方が提示されたうえで、
その次に、
宇宙の全体の構造のあり方が人間の存在によって規定されるということは、時系列的な関係を超えた論理的な関係においては、観測者としての人間の存在自体が宇宙そのものの存在自体を成り立たせているという考え方が提示されていくことによって、
前述したブランドン・カーターによる定義よりもさらに一歩踏み込んだ「強い人間原理」の捉え方が示されていくことになります。
そして、さらには、
こうした観測者自身による宇宙の定立という考え方に基づいて、宇宙を観測している観測者の数だけ宇宙が存在しているという議論が提示されていくことによって、
そうした一人一人の観測者が定立し続けている無数の宇宙が織り成す調和によって現実における一つの宇宙の姿が形づくられていくことになるというある種の多元宇宙論へとつながるような考え方も提示されていくことになると考えられることになるのです。
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次回記事:強い人間原理と弱い人間原理の違いとは?宇宙の存在そのものを成り立たせている究極の原理としての人間原理の位置づけ
前回記事:宇宙論における弱い人間原理とは何か?ディラックの宇宙論における大数仮説とロバート・ディッケの宇宙の年齢の議論との関係
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