アテナイにおける三十人政権の樹立とソクラテスとの関係:寡頭派の勢力のエレウシスへと撤退とアテナイの民主政の回復
前回書いたように、紀元前431年にはじまったアテナイとスパルタを中心とするギリシア世界を二分する戦いであるペロポネソス戦争は、紀元前404年におけるアテナイの無条件降伏によってついに終結の時を迎えることになります。
そしてその後、スパルタの支配のもとで新たな国家を建設していくこという屈辱を強いられることになったアテナイにおいては三十人政権あるいは三十人僭主とも呼ばれる寡頭政の政治体制が樹立されることになるのです。
アテナイにおける三十人政権の樹立と寡頭政に対する不満の高まり
ペロポネソス戦争における敗戦後のアテナイにおいては、無条件降伏したアテナイを新たに支配することになったスパルタ軍の統治下において国家の再建が進められていくことになり、
紀元前404年、そうした敗戦直後のアテナイにおいて、ペロポネソス戦争における自陣営の勝利へと導いたスパルタの将軍であったリュサンドロスの後見のもとで、親スパルタの政治家を中心とする三十人の有力者による寡頭政の政治体制にあたる三十人政権が樹立されることになります。
こうした三十人政権が樹立された当初のアテナイでは、過度な民主政の進展が衆愚政治へと陥ってしまうことによってペロポネソス戦争における敗戦へとつながってしまったという反省もあり、
貴族や富裕層などを中心とするアテナイの有力者たちのなかには、敵国であるスパルタの支配のもとにあるとはいえ、こうした寡頭政による新たな政治体制の樹立を歓迎する向きもあったのですが、
その後、こうした三十人政権と呼ばれる寡頭政の主導者たちは、自分たちの意向に逆らう対立勢力を次々に粛清していく恐怖政治を敷いていくことになります。
そして、そうした三十人政権の支配のもとでは1500人もの市民たちが反逆者として処刑されることになったほか、財産を没収されたり国外追放されたりする人々も続出していくことになり、
もともと民主政の自由を長い間にわたって享受してきたアテナイ市民たちの間では、すぐにこうした三十人政権における寡頭政の支配に対する不満が高まっていくことになるのです。
寡頭派の勢力のエレウシスへと撤退とアテナイにおける民主政の回復
そしてその後、こうした三十人政権による暴政に対して反旗を翻すことになったアテナイにおける民主派の市民たちは、アテナイの南西に隣接する外港であったペイライエウス(現在のピレウス)に立て籠もって寡頭政の打倒を目指す戦いを繰り広げていくことになり、
そうしたペイライエウスの攻防戦において、三十人政権を代表する寡頭派の指導者であったクリティアスが戦死すると、戦いに敗れることになった三十人政権の側にくみする市民たちはアテナイの北西に位置する小都市であったエレウシスへと撤退することになります。
そしてその後、三十人政権を支える立場にあったスパルタが援軍を派遣すると、アテナイにおける民主派と寡頭派の争いは膠着状態へと陥っていくことになり、
その後、スパルタの王であったパウサニアスによって両者の間の調停が行われることによって、三十人政権の側についていた市民たちも民主派の市民たちからの報復を受けないことを条件にアテナイへと帰還することになり、
紀元前401年、こうして三十人政権を支持していた寡頭派の市民たちと民主派の市民たちの間での妥協が成立しることによってアテナイにおける民主政の回復が成し遂げられることになるのです。
三十人政権に加わった三十人の人物の名前とソクラテスとの関係
ちなみに、こうしたアテナイにおける三十人政権に加わった人物の名前としては、アテナイ出身の古代ギリシアの軍人にして著述家でもあり、ソクラテスの弟子にして親しい友人の一人でもあったクセノポンによって、
ポリュカレス、クリティアス、メロビオス、ヒッポロコス、エウクレイデス、ヒエロン、ムネシロコス、クレモン、テラメネス、アレシアス、ディオクレス、パイドリアス、カイレレオス、アナイティオス、ペイソン、ソポクレス、エラトステネス、カリクレス、オノマクレス、テオグニス、アイスキネス、テオゲネス、クレオメデス、エラシストラトス、ペイドン、ドラコンティデス、エウマエス、アリストテレス、ヒッポマコス、ムネシテイデスという三十人の人物の名が挙げられています。
そして、こうしたアテナイにおける寡頭政の主導者となった三十人の人物のなかでも主導的な立場にあった人物であるクリティアスと、彼の甥にあたり上記のクセノポンによるリストのうちには名が挙げられていないもののアテナイにおける三十人政権の樹立に大きく寄与した人物であるカルミデスという二人の人物は、ソクラテスの弟子にあたる人物としても数え上げられているのですが、
そういった意味では、三十人政権の打倒によってアテナイにおいて民主政が回復されてから2年後に行われることになったソクラテス裁判においては、
こうした三十人政権のもとで行われた暴政によって家族が殺されるといった苦難を受けることになった民主派の市民たちの報復の矛先が、三十人政権における中心人物であったクリティアスやカルミデスの師と目されていたソクラテスへと向けられていくことによって、
不敬神の罪による死刑の宣告というソクラテス裁判における不当な判決へとつながっていくことになっていったとも考えられることになるのです。