ペルシア戦争は何回あったのか?ヘロドトスの『歴史』に基づく三回のギリシア遠征の区分と第一次と第二次ペルシア戦争
前回までに書いてきたように、アケメネス朝ペルシアとアテナイとスパルタを中心とするギリシア諸都市との間で50年間にわたって繰り広げられていくことになったペルシア戦争は、
紀元前499年に起きたイオニアのギリシア植民市によるアケメネス朝ペルシアへの反乱であるイオニアの反乱をきっかけとしてはじまったのち、
紀元前449年に結ばれたとされているカリアスの和約によって完全に終結することになったと考えられることになります。
そして、こうしたペルシア戦争と呼ばれる一連の戦いは、ペルシア帝国からギリシア世界へと向けて行われた数回にわたる大規模な遠征を中心に展開していくことになったと考えられることになるのですが、
こうしたペルシア戦争は大きく分けて何回にわたって行われることになったのか?言い換えればペルシア戦争におけるペルシア軍によるギリシア遠征の回数は何回だったと考えられるのか?という問いについては、
この戦争における視点をギリシア軍の側に置くのか?それともペルシア帝国の側に置くのか?といった観点の違いに応じて、それぞれに異なる答えが導き出されていくことになると考えられることになります。
ヘロドトスの『歴史』の記述に基づく三回のギリシア遠征の区分
そうすると、まず、
前5世紀の古代ギリシアの歴史家であるヘロドトスによって記された現存するギリシアの最古の歴史書である『歴史』においては、
ペルシア戦争におけるペルシア軍によるギリシア遠征は、三回に分けて行われることになったと語られています。
こうしたヘロドトスの『歴史』におけるペルシア戦争についての記述においては、
紀元前499年に起こったイオニアの反乱においてアテナイやエレトリアといったギリシア本土の都市国家が反乱軍を支援したことを知ったアケメネス朝ペルシアの王であるダレイオス1世は、
その後、紀元前494年にミレトスを陥落させることによってイオニアの反乱を平定したのち、アテナイを中心とするギリシア本土の都市国家への報復と、
かねてから狙っていた西方のヨーロッパ地域への領土拡大への野心から、ギリシアを含むヨーロッパ地域への大規模な遠征計画へと着手していくことになります。
そして、その後、
紀元前492年に行われた第一回ギリシア遠征においては、ダレイオス1世の命によって将軍マルドニオスが率いるペルシア軍の大艦隊がエーゲ海を北上していったのち、
ギリシアから見て北東の方角に位置するトラキアを制圧することによってこの地域をペルシア帝国の領土のうちへと組み入れることになるのですが、
その後、マケドニアの南東部に位置するアトス岬を迂回しようとした際、急激な暴風に見舞われることによって、ペルシア艦隊はその大部分が大破してしまうことになり、ギリシア本土へはたどり着くことがないままペルシア本国へと帰還してしまうことになります。
そして、その次に、
紀元前490年に行われた第二回ギリシア遠征においては、ダレイオス1世の命によってダティスとアルタプレネスの二人が司令官に任命されることになり、
エーゲ海を東から西へと横断していく形で進んで行った600隻の三段櫂船と呼ばれる軍艦からなるペルシアの大艦隊は、エーゲ海の島々を次々に制圧していったのち、
ギリシア本土に隣接するエウボイア島の主要都市であったエレトリアを制圧して、ついにアテナイが位置するアッティカ半島へと上陸することになります。
しかしその後、紀元前490年に起きたマラトンの戦いにおいて、アテナイの名将ミルティアデスが率いるアテナイの重装歩兵によってペルシアの大軍が破られることによってペルシア軍の遠征は再び失敗に終わることになります。
そして、その後、
紀元前480年に行われた第三回ギリシア遠征においては、ダレイオス1世の息子であるクセルクセス1世自らが30万の大軍と1200隻を超える三段櫂船から成る大艦隊を率いてギリシア本土へと押し寄せていくことになり、
紀元前480年に起きたテルモピュライの戦いにおいて、レオニダス王が率いる300人のスパルタの重装歩兵の奮戦によって多大な損害を被りながらもこの地を突破したペルシア軍はそのまま進軍を続けてアテナイを制圧することになるのですが、
その後、同じ年の紀元前480年に行われたサラミスの海戦においてテミストクレスの率いるアテナイ艦隊を中心とするギリシア艦隊がペルシアの大艦隊を打ち破ることによってクセルクセス1世は失意のうちにペルシア本国へと帰還してしまうことになります。
そして、その翌年の紀元前479年に起きたプラタイアの戦いにおいて第一回ギリシア遠征の時から遠征部隊を指揮してきた歴戦の将であるマルドニオスが率いるペルシア軍がスパルタの重装歩兵を中心とするギリシア連合軍に大敗することによって、
こうしたアケメネス朝ペルシアによるギリシア世界への大規模な遠征としてのペルシア戦争は事実上の終わりを迎えることになるのです。
ダレイオス1世による第一次ペルシア戦争とクセルクセス1世による第二次ペルシア戦争
このように、ヘロドトスの『歴史』の記述に基づくギリシア人側の視点から見たペルシア戦争の区分においては、ペルシア戦争は大きく分けて、
紀元前492年に行われた第一回ギリシア遠征と、紀元前490年に行われた第二回ギリシア遠征、そして、紀元前480年に行われた第三回ギリシア遠征という三段階に分けて行われたと捉えられることになります。
しかし、それに対して、
ギリシア遠征を行ったペルシア帝国の側の視点に立った場合、最初に行われた紀元前492年の遠征と、その次に行われた紀元前490年の遠征は、どちらもダレイオス1世によって行われた遠征にあたり、
特に、前者の紀元前492年の遠征においては、ペルシア軍はギリシア本土の攻略を直接的に目指していたのではなく、トラキアからマケドニアへと至る地域における勢力の拡大を主眼に置いていたとも考えられるため、
こうした紀元前492年の遠征はペルシア軍によるギリシア遠征の前哨戦にあたる遠征に過ぎなかったと捉えることもできると考えられることになります。
つまり、こうしたペルシア帝国の側の視点に立った場合、ペルシア戦争におけるギリシア遠征は、
ダレイオス1世の命によって行われた第一次ギリシア遠征にあたる紀元前490年に行われたマラトンの戦いを中心とする第一次ペルシア戦争と、
クセルクセス1世の命によって行われたた第二次ギリシア遠征にあたる紀元前480年から紀元前479年にかけて行われたテルモピュライの戦いとサラミスの海戦そしてプラタイアの戦いに終わる第二次ペルシア戦争という二つの局面へと分かれていく形で展開していったと捉えることもできると考えられることになるのです。
ギリシア側からは三回にペルシア側からは二回に区分されるペルシア戦争
以上のように、
アケメネス朝ペルシアによる大規模なギリシア遠征を中心とするペルシア戦争は大きく分けて何回にわたって行われることになったのか?という問いについては、
古代ギリシアの歴史家であるヘロドトスの『歴史』における記述に基づくペルシア戦争の区分においては、
紀元前492年に行われたペルシア艦隊のアトス岬の暴風による大破によって終わることになった第一回ギリシア遠征と、
紀元前490年に行われたマラトンの戦いにおけるアテナイの重装歩兵の勝利によって終わることになった第二回ギリシア遠征、
紀元前480年に行われたテルモピュライの戦いにおける敗戦ののち、サラミスの海戦と翌年のプラタイアの戦いにおけるギリシア連合軍の勝利によって終わることになった第三回ギリシア遠征という全部で三回のギリシア遠征に分けられて行われたと捉えられることになるのに対して、
ペルシア帝国の側に立った場合には、紀元前492年の遠征はトラキアの支配を目指して行われた本格的なギリシア遠征へと進むための前哨戦となる遠征として位置づけられたうえで、こうしたペルシア戦争の区分は、
ダレイオス1世の命によって行われた紀元前490年にはじまる遠征が第一次ペルシア戦争として位置づけられたうえで、
クセルクセス1世の命によって行われた紀元前480年にはじまる遠征が第二次ペルシア戦争として位置づけられることになると考えられることになるのです。