ペルシア戦争の三回のギリシア遠征におけるペルシア軍の進軍ルートの違いとアトス岬の暴風を教訓とする新たな行軍路の開拓
前回書いたように、ペルシア戦争におけるアケメネス朝ペルシアによるギリシア遠征は、古代ギリシアの歴史家であるヘロドトスの『歴史』における記述に基づくと、
紀元前492年に行われた第一回ギリシア遠征と、紀元前490年に行われた第二回ギリシア遠征、そして、紀元前480年にはじまる第三回ギリシア遠征という三段階に分けて行われたとされることになります。
それでは、こうしたペルシア戦争における三回のギリシア遠征におけるペルシア軍の進軍ルートにはそれぞれ具体的にどのような特徴の違いがあったと考えられることになるのでしょうか?
第一回ギリシア遠征におけるペルシア艦隊のアトス岬の暴風による撤退
そうすると、まず、上記の図において示したように、
ヘロドトスの『歴史』における記述では第一回ギリシア遠征として位置づけられている紀元前492年の遠征においては、
ダレイオス1世の命によって派遣された将軍マルドニオスが率いるペルシア軍の大艦隊は、まずは、ペルシア帝国の勢力下にあった現在のトルコが位置するアナトリア半島の西岸沿いのエーゲ海を北上していくことになります。
そして、その後、
マルドニオス率いるペルシアの大艦隊は、エーゲ海の最北端に位置する島であるタソス島を制圧したのち、艦隊の航路に並走していく形で海岸地帯を進軍していくペルシア陸軍と連携していく形で、
トラキアからマケドニア東部へと至る大部分の地域をペルシア帝国の支配下へと組み入れていくことになります。
しかし、その後、
ペルシア艦隊がマケドニアの南東部に位置するアトス岬を迂回してさらに西方へと進軍を続けていこうとした際に、急激な暴風に見舞われることによって艦隊を構成する大部分の船が大破してしまうことによって、ペルシアの遠征軍は本国への帰還を余儀なくされてしまうことになります。
そして、ヘロドトスの『歴史』における記述によれば、
こうした第一回ギリシア遠征におけるアトス岬の暴風によって受けたペルシア海軍の損害は、300隻の軍船と2万人以上の死者におよぶことになったと伝えられているのです。
第二回ギリシア遠征のマラトンの戦いによるアテナイ軍の勝利
そして、
こうしたアトス岬の暴風による撤退によって終わった第一回ギリシア遠征の2年後に行われることになった紀元前490年の第二回ギリシア遠征においては、
ダレイオス1世の命によって司令官に任命されることになったダティスとアルタプレネスの二人が率いる600隻の三段櫂船と呼ばれる軍艦からなるペルシアの大艦隊は、
第一回ギリシア遠征におけるアトス岬での遠征の失敗を教訓として、アナトリア半島の西岸からギリシア本土へと向けて東から西へとエーゲ海を横断するルートを通って進軍していくことになります。
そして、その後、
ダティスとアルタプレネス率いるペルシアの大艦隊は、エーゲ海の島々を次々に制圧していったのち、
ギリシア本土に隣接するエウボイア島の主要都市であったエレトリアを制圧して、ついにアテナイが位置するアッティカ半島へと上陸することになります。
しかしその後、紀元前490年に起きたマラトンの戦いにおいて、アテナイの名将ミルティアデス率いるアテナイの重装歩兵によってペルシアの大軍が破られることによって、
ダレイオス1世の命によって行われたペルシア軍による第二回ギリシア遠征は失敗に終わることになるのです。
第三回ギリシア遠征のサラミスの海戦とプラタイアの戦いによるギリシア連合軍の勝利
そして、その後、
こうしたダレイオス1世の命によって行われた紀元前490年の第二回ギリシア遠征の10年後に行われることになった紀元前480年の第三回ギリシア遠征においては、
ダレイオス1世の息子であるクセルクセス1世自らが30万の大軍と1200隻を超える三段櫂船から成る大艦隊を率いてペルシア帝国の中心都市の一つであったサルディスを出立したのち、
紀元前492年に行われた第一回ギリシア遠征と同様に、エーゲ海を北上するルートを通って海軍と陸軍が並走していく形で進軍を続けていくことになります。
そして、その際、
ペルシア陸軍は、アジアとヨーロッパとを隔てる海峡であるヘレスポントス海峡に架けられた巨大な船橋を渡っていくことによって速やかに大軍を進軍させていくことになり、
ペルシア海軍も、第一回ギリシア遠征において艦隊が暴風で大破することになったアトス岬のつけ根の部分に遠征準備のために掘削されていた運河を通っていくことによってより安全に進軍を続けていくことになります。
そして、その後、
紀元前480年に起きたテルモピュライの戦いにおいて、レオニダス王率いる300人のスパルタの重装歩兵の奮戦によって多大な損害を被りながらもこの地を突破したペルシア陸軍は、そのまま進軍を続けてアテナイを制圧することになるのですが、
同じ年の紀元前480年に行われたサラミスの海戦においてペルシア海軍がテミストクレスの率いるアテナイ艦隊を中心とするギリシア艦隊に打ち破られることによって、クセルクセス1世は失意のうちにペルシア本国へと帰還することになります。
そして、その翌年の紀元前479年に起きたプラタイアの戦いにおいて第一回のギリシア遠征の時から遠征部隊を指揮してきた歴戦の将であるマルドニオスが率いるペルシア軍がスパルタの重装歩兵を中心とするギリシア連合軍に大敗することによって、
クセルクセス1世の命によって行われたペルシア軍による第三回ギリシア遠征は失敗に終わることになり、これによって、
ペルシア戦争におけるアケメネス朝ペルシアによる三度にわたるギリシア遠征は終結を迎えることになるのです。
ペルシア戦争の三回のギリシア遠征におけるペルシア軍の進軍ルートの具体的な特徴の違い
そして、以上のように、
ペルシア戦争における三回のギリシア遠征におけるペルシア軍の進軍ルートにおける具体的な特徴の違いとしては、
紀元前492年に行われた第一回ギリシア遠征においては、ペルシア軍はエーゲ海を北上してからトラキアからマケドニアへと至る海岸沿いを航行していったのち、
アトス岬を迂回する際に急激な暴風に見舞われることによって艦隊を構成する大部分の船が大破してしまったことにより撤退を余儀なくされることになります。
そして、
その後に行われることになった第二回と第三回のギリシア遠征においては、どちらの遠征においても、こうした第一回のギリシア遠征におけるアトス岬の暴風による艦隊の大破を教訓とすることによって遠征計画が立てられることになったと考えられることになるのですが、
紀元前490年に行われた第二回ギリシア遠征においては、ペルシア艦隊はエーゲ海を北上せずに、ギリシア本土へと向けて東から西へとエーゲ海を横断するルートを通って進軍していくことになったのに対して、
紀元前480年に行われた第三回ギリシア遠征においては、ペルシア陸軍の行軍のためにヘレスポントス海峡に巨大な船橋を渡し、ペルシア海軍の行軍のためにアトス岬のつけ根を掘削して運河を通していくというように、
大地のそのものの形状を造り変えていくことによって、新たな進軍ルートが切り拓かれていくことになったという点に、
こうした三回のギリシア遠征のそれぞれの遠征における進軍ルートの具体的な特徴の違いが見いだされることになると考えられることになるのです。