ペルシア戦争の第二回ギリシア遠征におけるダティスとアルタプレネスの進軍とエレトリアの滅亡
前回で書いたように、ペルシア戦争の前哨戦にあたるアケメネス朝ペルシアによって紀元前492年に行われた第一回のギリシア遠征においては、
アトス岬の暴風によってペルシア艦隊の大部分が大破してしまうことなどによって、ペルシア軍はギリシア本土へとたどり着く前に本国へと撤退してしまうことになります。
そしてその後、ダレイオス1世がペルシア本国において再び大規模な軍備を整えたうえで第二回のギリシア遠征へと乗り出していくことによって、
アテナイやスパルタなどに代表されるギリシアの都市国家とアケメネス朝ペルシア帝国とが直接衝突して互いに激しい戦いを繰り広げていくことになるペルシア戦争がついに本格的な開戦を迎えることになります。
ダレイオス1世からのギリシア諸都市への勧告とペルシアの使者の処刑
第一回のギリシア遠征において、
アトス岬の暴風によって多数の軍艦と兵士の命を失うことにはなったものの、トラキアからマケドニアへと至るヨーロッパ大陸における広大な領土を得ることになったアケメネス朝ペルシアの王であるダレイオス1世は、
その後、ギリシア本土の都市国家に対しても外交使節を遣わしていくことによって、ペルシア帝国の支配下へと入ることを勧告していくことになります。
そして、
こうしたペルシア帝国からの勧告に対して、アテナイと敵対関係にあったアイギナなどを含む数多くの都市国家がペルシアからの使者を受け入れて帝国への恭順の意を示すことになるのですが、
ペルシア戦争と呼ばれる戦いのそもそもの発端となったイオニアの反乱の時からペルシアと敵対関係にあったアテナイや、ギリシア最強の陸軍国家であったスパルタはこうしたペルシア帝国からの勧告を拒否することになり、
古代ギリシアの歴史家であるヘロドトスの記述によれば、この時、アテナイ人とスパルタ人は、帝国の支配のもとに服することを勧告しに来たペルシアの使者を処刑することによってペルシアの大王への返答としたと伝えられています。
第二回ギリシア遠征におけるダティスとアルタプレネスの進軍
そして、その後、
ギリシア全土をペルシア帝国の支配下へと組み込むためには、圧倒的な軍事力によってこれらの都市国家を制圧することが必要であることを見定めたダレイオス1世は、
紀元前490年、ペルシア帝国の海軍大将であったダティスと、イオニアの反乱において反乱軍によって焼き払われた都市にあたるサルディスの総督であったアルタプレネスの二人をギリシア遠征の司令官として任命することになります。
そして、
ダティスとアルタプレネスの二人は、いったんギリシア本土とはエーゲ海をはさんだ対岸に位置するイオニア地方において軍備を整えたのち、
600隻の三段櫂船と呼ばれる軍艦からなる大艦隊を率いて第二回のギリシア遠征へと乗り出していくことになるのです。
ペルシア艦隊によるナクソスの制圧とエウボイア島への上陸
こうした紀元前490年における第二回のギリシア遠征のルートにおいてペルシア軍は、エーゲ海をいったん北上してからトラキアからマケドニアへとヨーロッパ大陸の海岸沿いに進軍していくという第一回のギリシア遠征におけるルートはたどらずに、
ナクソス島やデロス島といったエーゲ海に浮かぶ島々をたどっていくことによって、より短い距離でギリシア本土へと直接向かっていくルートを進んで行くことになります。
そして、
エーゲ海の中央部に位置するキクラデス諸島の最大の島にあたるナクソスを制圧したペルシア軍は、
その後、まずは、ギリシア本土に隣接する島であったエウボイア島へと上陸したうえで、この島に位置する中心的な都市国家であり、
イオニアの反乱においてアテナイと共に反乱軍を支援してサルディスの都を焼き払った宿敵でもあったエレトリアへと侵攻することになるのです。
アテナイからの援軍と7日間におよぶ包囲戦の末のエレトリアの滅亡
そして、
こうしたペルシア軍の第二回ギリシア遠征におけるエレトリアの包囲戦においては、
アテナイ人たちも同じイオニア人の都市国家であったエレトリアの防衛のために援軍として加わることによって、6日間にわたって激しい戦いが続いていくことになります。
しかし、その後、
エレトリア国内においても、ペルシアへの徹底抗戦を主張する主戦派と講和派の間での不和といった足並みの乱れが生じていくことになり、
包囲戦の7日目にして、エレトリア人の内通者が城門を開いてペルシア軍を招き入れることによって、ついにエレトリアの町はペルシア軍の手に落ちることになります。
そして、エレトリアの陥落の際、
ペルシア軍の兵士たちは、サルディスの復讐だと叫んで、町や神殿に火をかけて回ったと伝えられていて、その後、都市の住民はすべて殺されるか奴隷とされることによって、エレトリアは滅亡の時を迎えてしまうことになるのです。
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前回記事:ペルシア戦争の第一回ギリシア遠征における将軍マルドニオスの進軍とアトス岬での暴風によるペルシア海軍の大破と撤退
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