マラトンの戦いにおけるアテナイとプラタイアの重装歩兵の勝利とペルシア軍におけるアテナイの僭主ヒッピアスの暗躍

前回書いたように、ダレイオス1の命によって紀元前490に行われたペルシア戦争第二回ギリシア遠征においては、

ペルシアの将軍ダティスアルタプレネスによって率いられた600隻の三段櫂船からなるペルシア軍の大艦隊が、ナクソスやデロスといったエーゲ海に浮かぶ島々を横断していく形でギリシア本土へと押し寄せてくることになります。

そして、ギリシア本土に隣接するエウボイア島へと上陸したペルシア軍は、エレトリアへと侵攻して、この都市を7日間におよぶ包囲戦の末に陥落させたのち、アテナイへと向けて軍を進めていき、

ついに、アケメネス朝ペルシアとアテナイの両軍は、エウボイア島の対岸に位置するアッティカ半島東岸のマラトンの地において対峙することになるのです。

スポンサーリンク

ペルシア軍のマラトンへの上陸とアテナイの僭主ヒッピアスの暗躍

ペルシア戦争の第二回ギリシア遠征のルートとマラトンの戦い

エウボイア島の主要都市であったエレトリアを制圧したペルシア軍は、その後、この地で軍備を整えたうえで、

アテナイなどのギリシア本土の主要都市が位置するアッティカ半島への上陸準備を進めていくことになります。

そして、

そうしたアッティカ半島への上陸作戦を進めていく際に、ギリシア遠征に追従していた、かつてのアテナイの僭主であったヒッピアスの進言によって、

ペルシア軍の上陸地点は、ヒッピアスのかつての支持基盤があったアテナイの北東27kmほどの地点に位置するマラトンの地に定められることになります。

かつて、父であったペイシストラトスの後を継いで、

アテナイにおける二代目の僭主の座へとついたヒッピアスは、民主派の貴族によって弟ヒッパルコスが暗殺されたのちに暴君と化していくことになり、その後、

紀元前510年アテナイから追放されることになったヒッピアスは、東方の大国であるアケメネス朝ペルシアへと逃げのびていくことになります。

そして、

遠いペルシアの地において再びアテナイの僭主として返り咲く機会を虎視眈々とうかがい続けいたヒッピアスは、

自分がアテナイから追放されてから20年もの月日が過ぎたペルシア戦争における第二回ギリシア遠征に随行して、自ら進んでペルシアの尖兵としての役割を果たすことによって、

僭主としての自らの復位と、自分のことを追放したアテナイの人々への復讐を果たそうとしていたと考えられることになるのです。

スポンサーリンク

スパルタからの援軍の遅参とプラタイアからの600人の援軍 

こうしたアテナイのかつての僭主であったヒッピアスによる先導もあって、ペルシア軍は首尾よくマラトンの地へと上陸することになります。

そして、ちょうどその頃、

ペルシアの大軍が自分たちの都市に迫りつつあることを知ったアテナイでは、すぐに援軍を求める使者をスパルタへと送ることになるのですが、

アテナイと長い間ライバル関係にあり、小競り合いも続くなど互いに仲が悪い関係にあったスパルタの側は、アテナイに対してすぐに色よい返事はせず、

スパルタは今、神聖なる祈りの期間にあるので、祭儀が終わることになる一週間のちの満月の日になるまで出兵することはできないと言って、援軍を出し渋ることになります。

そして、そうしたなか、

アテナイ軍を率いる名将であったミルティアデスは、スパルタからの援軍も期待できずに国内の足並みが乱れるなか、ペルシアの大軍を相手にアテナイでの籠城戦を挑むのは、軍の士気が下がって造反を招きかねないと考えて、

先手を打って、アテナイの全軍を率いてマラトンの地へと出撃することを決断することになります。

こうして、すでにペルシア軍が陣を構えるマラトンの地においては、

アテナイから出陣した9000人の重装歩兵と、アテナイとの古き盟約によって、戦場へと駆けつけた近隣の小国であったプラタイアの600人の援軍だけで、

ペルシアの2万にもおよぶ大軍と対峙することになるのです。

スポンサーリンク

マラトンの戦いでのアテナイの重装歩兵の活躍とマラソン競技の起源

そして、 

こうして紀元前490年に起きたマラトンの戦いにおいては、

アテナイの名将ミルティアデスの采配によって、ギリシア軍の側から戦端が開かれることになります。

重装歩兵にとって有利な接近戦へと持ち込むために、ペルシア軍のもとへと駆け足で殺到していくことになったアテナイの重装歩兵たちは、

ファランクスと呼ばれる重装歩兵の密集陣形の力を発揮して長時間にわたって戦い続けていくことによって、ペルシア軍の両翼を押し込んでいき、やがて敵兵を壊走させることに成功することになります。

そして、

そのまま海岸地帯に停泊していた軍艦へと撤退をはじめていくペルシア軍に対して、アテナイとプラタイアの連合軍がさらなる追撃を加えていくことによって、

マラトンの戦いは、ペルシアの2万の大軍が兵の数としては半分にも満たないアテナイの重装歩兵を主体とする軍に敗れるというギリシア軍側の大勝利に終わることになります。

そして、その後、

こうしたマラトンの戦いにおけるアテナイの勝利を告げ知らせるために、全力で祖国へと走っていったアテナイ人の使者が、

「我らは勝てり」という勝利を告げ知らせる言葉を残して、そのまま力尽きて命を落とすことになったという故事に基づいて、

現在のオリンピックにおけるマラソンと呼ばれる競技が形づくられていくことになったと考えられることになるのです。

スポンサーリンク

ペルシア海軍によるスニオン岬を回る急襲作戦の失敗と本国への帰還

そして、その後、

マラトンから撤退した兵士たちを乗せたペルシア軍の艦隊は、いまだアテナイへの侵攻をあきらめずに、

アッティカ半島の南端に位置するスニオン岬を回ってアテナイ本国への急襲を仕掛けようとすることになります。

しかし、

こうしたペルシア海軍の動きの先を読んでいたミルティアデスは、ほとんど損害を受けていなかった重装歩兵たちを率いてすぐにアテナイへと戻ることになったので、

戦略の失敗を知ったペルシア軍は、そのまま船首を返してペルシア本国へと帰還することになるのです。

・・・

次回記事:ミルティアデスとペルシア帝国の深い関係とマラトンの戦いでの采配そしてパロス島遠征の失敗後のアテナイの獄中での非業の死

前回記事:ペルシア戦争の第二回ギリシア遠征におけるダティスとアルタプレネスの進軍とエレトリアの滅亡

古代ギリシア史のカテゴリーへ

スポンサーリンク
サブコンテンツ

このページの先頭へ