ミルティアデスとペルシア帝国の深い関係とマラトンの戦いでの采配そしてパロス島遠征の失敗後のアテナイの獄中での非業の死

前回書いたように、紀元前490に行われたマラトンの戦いは、アテナイの名将ミルティアデスが率いるアテナイとプラタイアの連合軍がギリシアの重装歩兵の密集陣形の長所をうまく活かすことによって、

自軍の2倍以上の兵力をほこる2万にもおよぶペルシアの大軍を破って海へと追い返すというギリシア側の大勝利に終わることになります。

そして、こうしたマラトンの戦いにおける優れた采配によって一躍名を上げることになったミルティアデスは、母国へと帰還したのちアテナイの英雄として讃えられることによって栄華を極めることになるのですが、

このように、ミルティアデスがマラトンの戦いにおいてペルシア軍に対して輝かしい勝利をおさめることができた背景には、それまでの彼の人生における複雑な来歴が深く関わっていたと考えられることになります。

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ミルティアデスの父キモンの暗殺とトラキアの植民市ケルソネソスの統治

ミルティアデスによるパロス島遠征とアテナイへのレムノス島の割譲

ミルティアデスは、紀元前550ごろの時代に、アテナイの名家であったフィライオス家に生まれることになるのですが、

その当時、ペイシストラトスの僭主政の時代にあったアテナイにおいては、僭主政の権力の座をめぐる抗争が続いていて、

ペイシストラトスの父にあたる有力貴族であったキモンも、そうした僭主政をめぐるアテナイの政争へと舞い込まれていくなかでペイシストラトスの一族の手にかかって暗殺されてしまうことになったと伝えられています。

しかし、その後、

ペイシストラトス息子にあたる僭主ヒッピアスの統治下において、政治的手腕を発揮することによって頭角を現していくことになったミルティアデスは、

当時のアテナイにおける指導者の立場にあたるアルコンと呼ばれる執政官の地位にまでのぼりつめたのち、彼と同名の伯父にあたる老ミルティアデスによって建設されたギリシアの北東に位置するトラキア南端の植民市にあたるケルソネソスの統治を任されることになるのです。

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ペルシア帝国の臣下となるミルティアデスとレムノス島とインブロス島の割譲

その後、ミルティアデスは、ケルソネソスの地において、

トラキアの近隣諸国との同盟関係を結んでいくと同時に、500人の私兵を雇って軍事的な支配を強めていくことによって、安定した植民市統治を進めていくことになるのですが、

紀元前513年ごろ、アケメネス朝ペルシアの王であったダレイオス1世が大軍を率いてトラキアの南部にまで遠征してきた時に、ケルソネソスペルシアの支配のもとへと服することになり、

その際に、ケルソネソスの統治者であったミルティアデスも、ペルシアの王であるダレイオス1世の臣下として服従することを強いられることになります。

そしてその後、ミルティアデスは、

ダレイオス1世によって行われたトラキアのさらに北東に位置する黒海の北方地域を支配する騎馬民族であったスキタイ遠征などにも従軍することによって、ペルシアの軍隊の戦術などにも深く精通していくことになります。

しかし、

こうしてダレイオス1世のもとに臣下として仕えるようになった後も、ミルティアデスアテナイ人あるいはギリシア人としてのペルシア帝国に対する反抗心は決して失われることがなかったと考えられ、

紀元前499イオニアの反乱が起きた際に、アテナイ人と同じイオニア人によって築かれた都市国家にあたるミレトスと中心とするイオニア地方のギリシア人植民市によって起こされたこの反乱にミルティアデスも加勢することによって、ペルシア帝国に対して反旗をひるがえすことになります。

そして、その後、

イオニアの反乱そのものはダレイオス1世の命によってペルシア本国から派遣された討伐部隊によって鎮圧されてしまうことになるのですが、

こうしたイオニアの反乱に乗じて、一時はペルシア帝国の支配下に入っていったエーゲ海北部の島にあたるレムノス島インブロス島を占拠してアテナイへの手土産として割譲することによって、ミルティアデスはアテナイとの友好関係を取り戻すことになるのです。

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マラトンの戦いにおける名将ミルティアデスの采配

そして、その後、

アテナイへと帰還することになったミルティアデスは、アテナイの民会において将軍へと選出されたのち、詳しくは前回の記事で書いた通り、

ペルシア戦争第二回のギリシア遠征における紀元前490に行われたマラトンの戦いにおいて、アテナイの重装歩兵を率いてペルシアの大軍を相手に奮戦を繰り広げていくことになります。

そして、こうしたマラトンの戦いにおいて、ミルティアデスは、

ダレイオス1世の臣下として仕えていた時代に得ることになったペルシア軍の戦術についての自らの知識と経験から、

まずは、ペルシアの騎兵隊による機動力を警戒して、重装歩兵が形づくる陣形の側面を突破されないようにするために、陣形の中央部よりも左右の側面より多くの重装歩兵を配置した横に長く伸びた特殊な陣形を形成したうえで、

ペルシア軍の本陣へと向けて駆け足で殺到していくことによって重装歩兵にとって有利な接近戦へと持ち込むことに成功することになります。

そして、その後、

マラトンの戦いにおいては、手薄になっていった陣形の中央部の戦いにおいてはアテナイ軍が不利な形勢となり、ペルシア軍による中央突破を許すことになるのですが、

それと同時に、陣形の両翼においてはアテナイ軍の重装歩兵の側が圧倒的に有利な形成を築いていくことによって、ペルシア軍の両翼が崩壊して敵兵が壊走していくことになります。

そして、さらに、

左右の敵陣を突破したアテナイの重装歩兵が中央部のペルシア軍のもとへと殺到していくことによって、ペルシア軍は全面撤退へと追い込まれていくことになり、

こうして紀元前490に起きたマラトンの戦いは、

総勢1万にも満たないミルティアデスが率いるアテナイとプラタイアの連合軍によって2万にもおよぶペルシアの大軍が破られるというギリシア軍側の大勝利に終わることになるのです。

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パロス島への遠征の失敗とアテナイの獄中における非業の死

そして、その後、

アテナイへと帰還することになったミルティアデスは、祖国アテナイをペルシア帝国の手から救った英雄として讃えられていくことになるのですが、こうしたミルティアデスのアテナイにおける栄華の時代はあまり長く続くことはなく、

マラトンの戦いにおける勝利によって自信を深めていくことになったミルティアデスは、その翌年にあたる紀元前489年に、市民たちの反対を押し切って、エーゲ海の中央部に浮かぶ島であったパロス島への遠征を強行することになります。

しかし、

勝手知ったるペルシア軍との戦いとは異なり、不慣れなエーゲ海の島々での海戦に苦戦することになったミルティアデスは、遠征のさなかに足に深手を負うことになった末に、この戦いに敗れてアテナイ本国への撤退を余儀なくされることになります。

そして、

こうしたパロス島遠征の強行とその失敗をめぐりアテナイの法廷へと立たされることになったミルティアデスは、国家に対する反逆罪によって死刑を宣告されたのち、

マラトンの戦いにおける英雄の助命を求める市民たちの声によって、50タラントンという高額な罰金刑に減刑されることになるのですが、

パロス島遠征の時に受けた足の傷が壊疽を生じて命に関わる状態にまでに悪化していたミルティアデスは、そのままアテナイの獄中において非業の死を遂げることになるのです。

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