パルミラの滅亡と大国の狭間で小国が生き残る道、ローマとパルミラ③
パルミラ王国をローマ帝国から独立させ、
自ら「アウグスタ」(ローマ帝国皇妃の称号)を名乗り、
女帝としてローマの東方属州のすべてを我がものにした、
女王ゼノビアは、さらに、地中海世界全体の制覇、すなわち、
ローマ帝国全土の征服を志して、さらなる高みを目指していきます。
それは、女王ゼノビア、ひいてはパルミラ王国全体にとっての、
至上の栄光をかけた、壮大な夢だったわけですが、
身の丈を超えた、地に足のついていない夢を追うことは、
ときに足元を救われ、身を滅ぼすことにもつながります。
短期的な勝利と長期的な戦争
ローマの東方属州すべてを征服するというパルミラの快進撃の原動力は、
東西の交易ルートの要衝として経済的発展を極めた、その経済力の強さ、
オダエナトゥスとゼノビアという2代続いた優れた指導者のもとで鍛え上げられた、精強で士気の高い軍隊、
そして、その軍隊を率いる、女王ゼノビアの卓越した外交的・軍事的才能と教養の高さ、行動力といった指導者としてのカリスマ性にありました。
しかし、この経済力、精強な軍隊、指導者のカリスマ性という3つの要素は、
短期的な電撃作戦による緒戦の大勝利には大きく貢献しましたが、
ローマ本国の攻略までも視野に入れた長期的な戦争に勝利するためには、
軍隊の維持に必要な食料と資源と確保といった兵站・物量の問題、さらには、
新たに獲得した属州の長期的な安定統治といった他の要素が重要になっていきます。
パルミラの経済的な豊かさは、ペルシアとローマという2大大国をつなぐ交易ルートにの要衝に位置していることを活かした、貿易や商業活動によって支えられていたわけですが、
ローマ本国との戦争になれば、当然、その交易ルートも遮断されることになり、
長期戦になればなるほど、頼みの経済力も低下していくことになります。
一方、世界帝国であるローマは、東方属州の他にも、
北アフリカやシチリア、ヒスパニア(現在のスペイン)やダキア(現在のルーマニア)、ギリシア方面にも食糧基地や資源の産地を数多く確保していて、
パルミラは、食糧や資源といった、兵站と物量の面で、ローマ本国に大きく劣っていたのです。
ローマとパルミラの属州・植民地に対する統治能力の差
そこで、物量面でローマ本国に対抗するための頼みの綱として、
パルミラが新たに獲得した東方属州の1つであり、
地中海世界最大の穀倉地帯でもあったエジプトの統治を、
いかに確実で安定したものにできるかという点が重要であり、
そこに、ゼノビアのローマ本国への反乱と、
自らが女王として君臨する世界帝国への夢の成否がかかっていました。
しかし、この属州の統治という点に、パルミラのもう1つの大きな弱点があったのです。
都市としてのパルミラの歴史は古く、紀元前2000年頃にはすでに存在していて、
伝説上は、前753年にロムルスとレムスにより建設され、
前7C頃からやっと都市国家としての整備が進んだローマと比べても、
都市としての歴史の長さとしては大きく長じていました。
しかし、こと世界帝国として、他国を征服・支配し、
文化も慣習も、言語すら違う他国の人々を1つに取りまとめ、統治するという
属州・植民地の統治経験に関しては、
ローマは、共和制ローマの時代から400年にわたって、カルタゴ、ギリシア、エジプトにゲルマン諸部族と、他国・他民族の征服とその支配に明け暮れ、
異民族たちを長く属州のもとに押さえつけ、統治し続けてきました。
それに対して、パルミラは、政治的には、ローマ帝国の東方属州の一部分で自立していたとはいえ、実際に他国や他民族をその名のもとに押さえつけ、征服・支配した経験などはほとんどない、
シリア地方の地域覇権的な都市国家に過ぎません。
世界帝国であるローマ帝国と、もともとは辺境の小国に過ぎない都市国家パルミラとでは、
属州・植民地の長期的な統治能力に雲泥の差があったのです。
ゼノビアの捕縛とパルミラの滅亡
パルミラの指導者ゼノビアも、こうした属州統治の困難さの問題には気づいていて、
ゼノビア自身のたぐいまれな教養の高さを活かしつつ、新たに、
哲学者カッシウス・ロンギヌスを顧問として招いて、その協力も仰ぎ、
新しく征服した東方属州の統治を進めていきます。
しかし、属州の人々も、上り調子で勢いのあるパルミラの軍勢が押し寄せてきたときには、その軍事力を前に、いったん降伏しはしましたが、
パルミラの軍団が、さらなる支配地域の拡大を求めてその主力部隊を移動させると、
属州の人々はすぐに本来の宗主国であるローマと連絡をとって、
反旗を翻し、その支配を覆してしまうことになるのです。
ローマ皇帝アウレリアヌス自らが率いるローマのパルミラ討伐軍がシリアへと迫ると、
ゼノビアは、シリアの地中海沿岸に近いアンティオキアで、
ローマ皇帝の軍隊を迎え撃つために、パルミラ軍の主力部隊をエジプトからシリアへと北上させます。
しかし、主力部隊をシリアへ移動させると、
征服したばかりのエジプトですぐに反乱が起き、ローマ軍の別動隊の侵攻によって、
パルミラは、エジプトの支配権を失うことになります。
エジプトを失い、アンティオキアとエメサ(現在のシリア西部の都市ホムス)でも
相次いでローマ皇帝の軍に敗れ、
その戦いで息子ウァバッラトゥスまでも失ったゼノビアは、
失意のまま、本拠地パルミラへと撤退します。
そして、さらにパルミラでもローマの大軍による包囲を受けると、
ゼノビアは、自らの根拠地であるパルミラも捨てて、さらに東へと向かい、
以前から通じていたペルシア帝国に庇護を求めて逃走を図ります。
273年、敗走するゼノビアの軍は、シリア砂漠を越えて、ペルシア領内へと逃げのびようとしますが、
ユーフラテス川を越えて東のペルシア帝国の首都クテシフォンへ向かおうとするところで、ローマ軍に追いつかれ、女王ゼノビアはローマ軍によって捕らえられ、
これをもって、パルミラ王国は滅亡を迎えます。
パルミラの女王ゼノビアは、捕らえられたのち、
ローマへの服従の証しとして、ローマ市内を引き回される代わりに、命は助けられ、
その後は、ローマ郊外の豪奢な邸宅で余生を過ごすことを許されたと言われています。
一方、彼女に付き従った、哲学者ロンギヌスらパルミラの高官たちは、
ローマに反旗を翻した見せしめに処刑され、
パルミラの町はローマ軍の略奪を受けて荒廃し、
この都市にかつての繁栄が戻ることは2度とありませんでした。
大国の狭間で小国が生き残る道
新興勢力が新たに台頭し、それまで君臨していた世界帝国の力が弱まるとき、
それらの大国の間にある諸国家は、
このまま今までの陣営にとどまり続けるのか、台頭する新興勢力に新たにつき従うのか、それともそのどちらにもくみせずに第3の道を歩むのか、
選択と決断を迫られることになります。
ローマのような世界帝国には、強大な力と権力があり、
失策により敗北と失地を重ねても、
失われるのは所詮、属州や植民地の領土であって、
敵軍が自国の本拠地に到達するまでには、空間的にも時間的にも大きな猶予があります。
しかし、いかに経済力や優れた特色があったとしても、
広大な領土を持たない小国の場合、
そのような外交上・軍事上の方針を決める1回の選択のミスが、即、
国家存亡の危機に関わってきてしまうことがあるのです。
ゼノビア統治下のパルミラ王国がたどった末路がまさにそうだったと言えるでしょう。
ゼノビアの覇業と、世界帝国への大いなる夢、そしてその夢の実現に向けて、
強大なローマ帝国へと果敢に挑みかかる行動力は、確かに魅力的で、
それは自らの手で主体的に歴史を切り開いていく、
人間の意志の力の証明でもあります。
しかし、こと国家の安定した統治、そして、
長期的な視座に立った平和と繁栄という点に関しては、
どこまでも夢を追い求め、
結果として自らの国自体を滅ぼしてしまったゼノビアよりも、
堅実で面白みに欠けるところはありますが、
ローマ帝国との同盟関係を基軸に、安定した統治と国際秩序の維持に貢献し、
自国に永続的な平和と繁栄をもたらしたオダエナトゥスの統治の方に学ぶべき点が多いように思います。
パルミラの平和と繁栄は、ローマの東方の盟主オダエナトゥスのもと、
ローマ帝国との安定した継続的な同盟関係を維持し続けることによってもたらされてきました。
そして、パルミラは、女王ゼノビアのもと、
その都市国家としての本分を超えて、ローマにとって代わって
自らが世界帝国たらんとして、覇をとなえたとき、
その国家としての命運も尽きてしまったのです。
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ちなみに、王国が滅亡してから、
古都パルミラは、砂漠の砂の中に埋もれ、
長い眠りについていましたが、
1751年、イギリスの考古学者たちによって遺跡が発掘されると、
再び日の目を見るようになり、
1980年、国家や民族の枠を超えて、守り伝えられていくべき、人類共有の大切な遺産である世界遺産として登録され、
ヘレニズムから古代ローマ時代の面影を残す貴重な遺跡として、
本当につい最近まで守られてきました。
しかし、2015年5月、この地をいわゆるイスラム国が支配下に置くと、
同年8月、彼らは、遺跡を守り管理していた現地の考古学者を殺害したうえで、
神殿や凱旋門など、パルミラ遺跡の多くの部分を破壊してしまったのです。
したがって、もはや今となっては、オダエナトゥスと女王ゼノビアが生きた
古都パルミラの姿を実際に目にすることはできなくなってしまいました。
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このシリーズの前回記事:「女王ゼノビアの世界帝国への野望、ローマとパルミラ②」
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