女王ゼノビアの世界帝国への野望、ローマとパルミラ②
オダエナトゥスの統治のもと、
ローマ帝国の東方の盟主として永続的な平和と繁栄を謳歌したパルミラでしたが、
勝利と繁栄のなかで増大していく、王国の富と権力の分配をめぐって、
パルミラ内部での王族同士のいさかいや権力闘争が激化していくと、
その状況は一変することとなります。
オダエナトゥスの暗殺と才女ゼノビア
後267年、一族の宴席の最中に、甥のマエオニウスらが突如剣を抜いて襲いかかり、
オダエナトゥスは、その後継とされていた長子ヘロディアヌスと共に暗殺されてしまったのです。
繁栄の絶頂から、聡明で優秀な指導者を暗殺により失うという急転直下の混乱の中にあって、この事態を見事に収拾したのは、
さかのぼること、後258年にオダエナトゥスの後妻として迎えられていたゼノビアでした。
ゼノビア、正式には、セプティミア・バトザッバイ・ゼノビアは、
その名が示す通り、アラビアの有力部族の長「ザッバイ」の娘であり、
その母はギリシア人であったと伝えられています。
ゼノビアは、古代エジプト語のほか、ラテン語・ギリシア語・シリア語・アラビア語など地中海世界の主要な言語のすべてに通じていて、ホメロスとプラトンの比較論や歴史書を記すなど、哲学や学問にも広く秀でていました。
また、学問的教養だけでなく、ゼノビアは、
夫が存命中にも、その遠征に何度も同行し、
自ら軍装をまとい馬を駆って戦場におもむき、
戦略や外交面でも夫オダエナトゥスの大きな助けとなっていました。
そのような才女ゼノビアは、夫オダエナトゥスとその後継者たる長子を同時に失うという悲劇にも動じることなく、すぐにこの事態の収拾に動くことになります。
自らの実子であり、
殺害されたオダエナトゥスの長子ヘロディアヌスの異母弟にあたる、
幼少のウァバッラトゥスをオダエナトゥスの後継者に据え、
自らがその共同統治者として君臨することで、事態を急速に収拾し、
パルミラの統治をすぐに安定化させることに成功したのです。
しかし、このオダエナトゥスとその長子の暗殺後、すぐに、自分の子供を後継者にして、自分もその共同統治者におさまるという手際のよさと変わり身の早さ、
そして、その後の女王としての強権的な振る舞いから、ゼノビアには、ある疑いがかけられてもいます。
それは、いわゆる、白雪姫の「悪い女王」のように、
夫オダエナトゥスを死に至らしめる謀略に、その後妻であるゼノビアも関与していたのではないか?という疑いです。
ただ、その死に彼女が直接関与していたのか否かはともかくとして、
ゼノビアのその後の行動を見る限り、
夫の死後、彼女の思いは、夫の死を悲しんで、従順にその意志を継ごうとする方向へは向かわず、むしろ、
誰に縛られることもなく、自由に自分の考えで行動し、
強大な権力を思うがままに振るうことの喜びの方へと向かっていったことは確かなようです。
まったくの偶然だったのか、それとも意図的にそうなるように仕向けた要素が暗黙裡にでもあったのか、定かではありませんが、
いずれにせよ、彼女は、夫の死とその後継者である長子の死という機会を利用して、
一気に歴史の表舞台へと飛び出していくことになります。
聡明で堅実ではあるが、保守的で面白みに欠けるともいえる夫オダエナトゥスの死をきっかけに、
教養豊かで、革新的な性格の才女ゼノビアは、
自身の卓越した外交的・軍事的才能を大きく花開かせ、
その政治的・歴史的な大いなる野望を顕わにするようになるのです。
女王ゼノビアの進撃とローマ東方属州の制覇
当時、ローマ帝国内では、
ゲルマニアの統治を任されていたローマの将軍が、帝国の支配から自立化し、
後260年頃、ガリア帝国を建国して、ローマに反旗を翻していたのですが、
ローマがこのガリア帝国との戦いに、軍事力の多くを割いて苦難するなか、
ゼノビアは、この状況を好機ととらえて、その反乱の動きに呼応するように行動を開始します。
オダエナトゥスが死んだ、後267年に、早くも、
後継者とした据えたウァバッラトゥスに
ローマ皇帝を僭称(自分の身分を超えた称号を勝手に名乗ること)させると、
ゼノビア自身も、ローマ帝国皇妃の称号である「アウグスタ」を自称するようになります。
ここに、都市国家パルミラは、
パルミラ王国として、正式にローマからの独立を宣言し、
世界最大の権力と力をもったローマ帝国に対して、
公然と反旗を翻すことになります。
ゼノビアは、ローマ帝国西方の辺境、ガリア帝国の反乱と呼応して、
ガリア帝国とパルミラ王国で
東西から、ローマ帝国という巨象を挟み撃ちにしようとしたのです。
ローマと戦う際に、パルミラにとって最大の懸念となるのは、背後のペルシア帝国の動きだったわけですが、外交的手腕にも優れていたゼノビアは、
ペルシアとも相互不可侵的な同盟を交わすことに成功していて、
その点でも抜かりがありませんでした。
ペルシア帝国は、それまでパルミラには、オダエナトゥスの時代から、2度の首都クテシフォン侵攻を受けたりと、苦い思いをさせられてきたわけですが、
ペルシアにとっても、パルミラとガリア帝国の反乱は、
最大の敵であるローマをたたく絶好の機会だったので、
ローマ帝国がパルミラとの戦いで疲弊し、弱体化することを望んで、両者の戦いを静観することにしたのです。
オダエナトゥスの時代から鍛え上げられ、ペルシア軍を破るほどの精強さを誇ったパルミラの軍勢は、
女性とはいえ、軍事的にも秀でた才能をもった女王ゼノビアの指揮のもと、破竹の勢いの進撃を見せました。
亡き夫からパルミラ王国を引き継いでから、わずか3年ほどのうちに、
シリア全域から、パレスティナ、アラビア、そしてエジプトと、
ローマ帝国の東方地域をことごとく攻略することに成功し、
パルミラ王国は、ローマの東方属州の全て、
ローマ帝国のほぼ4分の1の領域を手にするにまで至ります。
ここにローマ帝国は、パルミラ王国を引き継いだ一人の女性の大いなる野望のために、まるで、三国志の魏・呉・蜀のように、
三国鼎立の分裂状態に置かれることになってしまったわけです。
エジプトを征服したのち、ゼノビアは、自らをかつてのエジプトの女王クレオパトラになぞらえて、「エジプトの女王」とも称するようになったのですが、
女王ゼノビアは、
世界帝国であるローマ帝国の盟主という安定した地位に甘んじることなく、
ローマ帝国を超えて、
自らが世界帝国の女王として君臨することを目指して行動を起こす道を選択したのです。
・・・
このシリーズの前回記事:
「ローマとパルミラと日米同盟、東方の盟主オダエナトゥス」
このシリーズの次回記事:
「パルミラの滅亡と大国の狭間で小国が生き残る道、ローマとパルミラ③」