ローマとパルミラと日米同盟、東方の盟主オダエナトゥス

アメリカと日本の関係は、
ローマカルタゴ(ローマと地中海の覇権を競い合い、3次にわたるポエニ戦争により前146年に滅亡したフェニキア人の植民都市国家)の関係になぞらえて語られることが多いですが、

特に、第2次世界大戦後の日米安全保障条約を基軸とした、日米同盟に基づいた
現代の日米関係について考えるとき、日本のアメリカに対する関係は、

ローマとペルシアという2つの強大な力を持った大国の間に挟まれた小国
でありながら、

世界帝国であるローマ帝国との強固な同盟関係を基軸に、
軍事的安定と経済的繁栄を謳歌して繁栄を極めた、
都市国家パルミラに近いところが多くあるように思われます。

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東西交易ルートの要衝、商業都市国家パルミラ

下記の地図に描いた通り、
現代のシリア中央部にあった都市国家パルミラは、
西は、ダマスカス、エルサレムを通って、エジプトへ、あるいは、
ビザンティウム、アテネそしてローマへと通じていて、

東は、ペルシア帝国の王都クテシフォンを通って、
サマルカンド、さらには遠く東の敦煌、中国へとのびるシルクロード(絹の道、中国と地中海世界の交易路)へと通じる、

地中海世界とエジプトメソポタミアペルシア、さらには遠く東の中国までをもつなぐ、東西の交易ルートの重要な拠点に位置していました。

前3C~後3C頃の東西交易ルートの諸都市とパルミラ

この地には、古くは紀元前2000年頃から
都市が建設されていたと考えられていますが、

このパルミラの町は、アラブ人たちによって建設され、
パルミラの人々は、アラム語(内陸の隊商貿易で活躍した古代オリエントの遊牧民アラム人の言語)を話し、
アラム文字を変化させた独自の文字パルミラ文字も持っていたと考えられています。

前4Cのアレクサンドロス大王の東方遠征後、この地が、
アレクサンドロス大王の後継者の1人であるセレウコスが開いた、
セレウコス朝の勢力下に入るようになると、

パルミラの町は自治を委ねられ、その後、
都市国家として自立することとなりました。

前1C頃までに、共和制ローマが台頭してくると、パルミラは、
東方の大国パルティアとの間の緩衝国として独立を維持するとともに、

地中海世界とオリエントをつなぐ、交易ルートの要衝
隊商貿易を担う商業都市国家として、さらなる繁栄を謳歌していくことになります。

ローマ帝国の強大化とパルミラのシリア属州への編入

前30年、ヘレニズム王朝(アレクサンドロス大王の後継者たちが建設した諸王国)のなかで最後まで命脈を保っていたプトレマイオス朝エジプトローマに併合され、

前27年に、オクタウィアヌスが初代アウグストゥスを名乗り、
プリンキパトゥス(元首政)と呼ばれる事実上の帝政を敷くようになると、

ローマは帝国として、以前にもまして求心力が増大し、
軍事的にも、政治的にも強大化していきます。

そして、そのようなローマ帝国の世界帝国としての強大化の流れを受けて、
後1C頃には、パルミラも正式に、ローマの傘下に入り、
ローマ帝国の中のシリア属州に編入されることになります。

したがって、以降の、パルミラとローマ帝国の関係は、正確には、
同盟関係というより、ローマ本国と、属州の都市国家という服属関係にある、
ということになりますが、

属州に編入されたのちも、パルミラには自由都市としての大きな権限を与えられていて、自由な経済活動や、自立的な軍隊の保有なども認められていたため、

帝国の属州に編入されたのちも、ローマ帝国に対して、
パルミラは実質的には独立国に近い状態だったと考えられます。

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東方の盟主オダエナトゥスとローマとパルミラの互恵的な繁栄

後3Cになると、かつての東方の大国パルティアが滅亡したあとの混乱をおさめた、
ササン朝ペルシアが、イラン高原からメソポタミアにわたる広大な領土を統治する新勢力として台頭し、ペルシア帝国として、ローマ帝国と並ぶほどの軍事的勢力を誇るようになります。

地中海世界とオリエント世界のちょうど間に位置するパルミラは、この時代、

やや衰退の兆しはあるが、いまだ強大な世界帝国として君臨し続けるローマ帝国と、
急速に勢力を拡大する東方の新興勢力であるササン朝ペルシアという、

2つの拮抗する巨大帝国の力が衝突する、その境界面の真っただ中に置かれることになってしまったわけです。

後3C中頃のパルミラの勢力圏とローマ帝国とペルシア帝国の勢力図

2つの巨大な勢力の狭間で押しつぶされて、そのまま滅亡の道をたどることになってしまわないために、

強大な2つの帝国のうち、どちらの勢力にくみするのか?
ローマか?ペルシアか?

それとも、どちらの勢力にも組せずに、我が道を行く第3の道があるのか?

パルミラは、国家としての存亡をかけて、そうした難しい選択を迫られることとなったわけです。

そのときパルミラを統治していた、自らもパルミラの生まれで、シリア属州の総督にも任命されていた、
セプティミウス・オダエナトゥスのこの問題に対する、回答は、
実に簡明で合理的なものでした。

オダエナトゥスは、ローマ帝国との安定した伝統的な同盟関係を重視し、
国内の統治を安定させ、他国からの侵略を未然に防止するという長期的な観点から、

上り調子の新興勢力には見向きもせずに、
古い盟友との同盟関係に忠実に従うことを選択したのです。

後260年、エデッサの戦いで、ササン朝ペルシアローマ皇帝ウァレリアヌスの軍を破り、ローマ皇帝自身がペルシアの捕虜となってしまうと、

オダエナトゥスは、すぐに、ペルシアの皇帝シャープール1世に、ウァレリアヌスの解放を求めて働きかけます。

そしてその後、交渉もむなしく、ウァレリアヌスがペルシア領内で殺されてしまうと、

オダエナトゥスは、その報復として、自ら軍を率いて、ペルシア帝国領内深くに進軍し、2度にわたってペルシアの王都クテシフォンに侵攻するにまでに至るのです。

その後、次のローマ皇帝に即位したガッリエヌスの即位を手助けした功績なども合わせて認められ、ローマ帝国本国から全幅の信頼を寄せられるようになり、

オダエナトゥスによる統治のもと、
パルミラは、都市国家としての実質的な独立だけでなく、
ローマの東方属州全体の軍事的指揮権まで任されるようになります。

同盟国がもたらす辺境の地域的な安定が、
帝国全体の統治の安定と、政治的・軍事的な求心力の増大につながり、

帝国本国の政治的・軍事的安定が、強力な後ろ盾となり、
同盟国の国内統治の安定と、他国からの侵略の抑止につながる、

そのような永続的な互恵関係のなか、
ローマ帝国本国と、その東方の盟主パルミラとの信頼関係は深まり、

ローマ帝国の忠実な盟主として、世界帝国との強固な同盟関係を基軸に、
パルミラの永続的な平和と繁栄が築かれていったのです。

・・・

このシリーズの次回記事:「女王ゼノビアの世界帝国への野望、ローマとパルミラ②

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