旧約聖書のケルビムの車輪とユングの心理学のマンダラの関係、預言者エゼキエルの自己の内面を通じた神との対話と生命の樹

前回の記事で書いたように、旧約聖書エゼキエル書における記述においては、ケルビム(Cherubim、日本語においては智天使と呼ばれている天使の姿は、

四つの顔四枚の翼四本の手を持ち、無数の目を持つ生きた車輪と一体となって稲妻を放ちながら燃える炭火のように輝きをたたえて天空を駆けめぐっていくという異形の姿をした存在として描かれていくことになるのですが、

こうした旧約聖書において、古代イスラエルの預言者であったエゼキエルが自らの前に幻を見るような形で現れたと書き記しているケルビムの姿には、

ユングの心理学において人間の普遍的無意識に基づいて現れるとされる元型的イメージ、そのなかでも特に、ユングのマンダラとして知られている自己と世界の構造全体を説明する普遍的な幾何学図形との深いつながりと共通点を見いだしていくことができると考えられることになります。

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バビロン捕囚の一人であった預言者エゼキエルが自らの精神の内面世界を通じた神との対話のなかで見いだしたケルビムの幻影

エゼキエル(Ezekielとは、紀元前6世紀ごろの時代に生きていたと考えられるバビロン捕囚時代においてイスラエルの預言者としての役割を担った人物であり、

預言者としての活動をしていた時代のエゼキエルは、バビロニアの王であったネブカドネザル2世によってエルサレムが破壊されて征服されたのち捕虜となり、他のイスラエルの民たちと共にバビロニアへと強制移住させられていたと考えられることになります。

そして、

エゼキエルは、そうしたバビロン捕囚の一人として、幽閉状態にも近い不自由な生活を強いられるなかで、祖国の滅亡によって打ちのめされていたイスラエルの人々に新たな救いと希望とを与えるために、

自らの心の内に現れる神の言葉と神聖なるイメージを様々な象徴と比喩を通して人々に語り伝えていくことになるのですが、

冒頭で述べた四つの顔四枚の翼四本の手を持ち無数の目がある生きた車輪と一体となって天空を駆けめぐるというケルビムの幻影は、

エゼキエルがそうしたバビロン捕囚としての幽閉生活のなかで、ひたすら自らの精神の内面世界を通じて神との対話を深めていくなかで見いだしていくことになった神の座する天界と現実の世界とを結ぶ天使とも呼ぶべき存在についての一つの普遍的なイメージであったと捉えることができると考えられることになるのです。

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旧約聖書のケルビムの車輪とユングのマンダラとの共通性と生命の樹

ユングのマンダラ

(参照:河合隼雄『無意識の構造』、中公新書、165頁、図21「ユングのマンダラ」)

・・・

そして、それに対して、

ユングの心理学においては、人間の無意識や夢の中、あるいは、古代の神話や物語などの内に見いだされる人類共通の普遍的イメージのことを指して元型(archetype、アーキタイプ)という言葉が用いられていくことになるのですが、

20世紀前半のスイスの心理学者であったユングは、夢や幻影などを通して、自らの心の内に広がる無意識の世界の内に見いだしていくことになったそうした様々な元型的イメージは、

同心円構造を中心とする普遍的な幾何学構造の内に統合されていくことになるという思想へと到達していくことになります。

そして、のちに、

そうした自らの心の内に見いだされることになった自己と世界を象徴する普遍的なエネルギーを持った幾何学的な図形が古代インドの哲学チベット密教においてマンダラ(曼荼羅)と呼ばれてきた図形と非常によく似ていることに気づくことによって、

ユングが上記の図のような形で示した同心円構造を中心とする元型的イメージは、ユングのマンダラと呼ばれるようになっていったと考えられることになるのです。

そして、

こうしたユングのマンダラと呼ばれる元型的イメージと、前述した古代イスラエルの預言者であったエゼキエルが自らの心の内に見いだしたケルビムと呼ばれる天使の姿の間には、

特に、そうしたケルビムと一体となって天空を駆けていく無数の目を持つ生きた車輪と呼ばれる存在との間に深いつながりや共通点のようなものを見いだしていくことができると考えられることになるのですが、

こうしたケルビムと一体となって天空を駆けていく車輪の姿について、エゼキエル書において具体的な描写がなされている箇所を再び引用しておくと以下のようになります。

・・・

わたしが生き物(ケルビム)を見ていると、四つの顔を持つ生き物の傍らの地に一つの車輪が見えた。 それらの車輪の有様と構造は、緑柱石のように輝いていて、四つとも同じような姿をしていた。その有様と構造は車輪の中にもう一つの車輪があるかのようであった

それらが移動するとき、四つの方向のどちらにも進むことができ、移動するとき向きを変えることはなかった。 車輪の外枠は高く、恐ろしかった。車輪の外枠には、四つとも周囲一面に目がつけられていた

生き物が移動するとき、傍らの車輪も進み、生き物が地上から引き上げられるとき、車輪も引き上げられた。

それらは霊が行かせる方向に、霊が行かせる所にはどこにでも進み、車輪もまた、共に引き上げられた。生き物の霊が、車輪の中にあったからである

(旧約聖書「エゼキエル書」1章15節~20節)

・・・

つまり、

こうした旧約聖書エゼキエル書において描かれているケルビムと一体となって天空を駆ける生きた車輪の姿は、

「車輪の中にもう一つの車輪があるかのようであった」と記されているように、そこでは、ユングのマンダラにおける同心円の構造を連想させるような描写がなされていると考えられることになるのです。

ちなみに、

こうした旧約聖書のなかでその名が最も多く言及されている天使にあたるケルビムあるいは智天使と呼ばれる存在は、旧約聖書の最初の書にあたる「創世記」においては、

・・・

主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。

こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた

(旧約聖書「創世記」3章 23節~24節)

・・・

と記されているように、旧約聖書においてケルビムは、エデンの園にあるとされている人間に永遠の命をもたらす生命の樹へと通じる門を守る守護者としても、位置づけられていると考えられることになるのですが、

上記のユングのマンダラのなかには、ユング自身の手によって、同心円構造のなかの外側から二番目の円の領域の下部に、ラテン語において「生命」を意味するvita(ウィータ)という単語が右側に付記される形で、ヤシの木のような巨木の姿をした生命の樹の姿が書き込まれているというように、

そのような点においても、こうした旧約聖書におけるケルビムの存在と、ユングの心理学におけるマンダラとの間には、時を超えたシンクロニシティーとも呼ぶべき互いに不思議な共通点を見出していくことができると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:新約聖書のマタイによる福音書におけるサタンに対する三つの呼び名とは?サタン(悪魔)とは何か?④

前回記事:ケルビム(智天使)とは何か?旧約聖書に登場するケルビムの具体的な姿や特徴とヘブライ語におけるケルブとケルビムの意味

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