カントの倫理学において善意志の本質が道徳的な感情ではなく道徳法則の内に求められる具体的な理由とは?
前回の記事で書いたように、カントの倫理学の体系は、善意志と呼ばれる人間の心の内における善なる意志の存在に基づいて構築されていて、
そうしたカントの倫理学において善意志の概念は、人間におけるあらゆる性質や行為、思考や感情のなかで、「無条件に善い」といえる真の意味で善いもののことを意味する概念として定義されたうえで、
その具体的な存在のあり方は、「無条件に~せよ」と命じる定言命令の形で示される道徳法則の存在そのものの内に求められていくことになるのですが、
このように、
カントの倫理学における善意志の概念の本質が、思いやりや優しさといった人間における善良な性格や道徳的な感情の内においてではなく、
道徳法則という一見するとあまりに無機質にも思えるような概念の内に求められていくことになるのには、具体的にどのような理由があると考えられることになるのでしょうか?
人間における自発的な心の働きのあり方としての道徳的な感情
冒頭でも述べたように、
カントの倫理学においては、善意志と呼ばれる概念は、人間が無条件に従うべき倫理規範のことを意味する道徳法則と同義語にあたるような概念として位置づけられていくことになるのですが、
その一方で、
こうした善意志という言葉自体の意味に基づいて考えると、
そこに「意志」という人間における自発的な心の働きのあり方を意味する言葉が用いられている以上、
その概念の本質的な意味のあり方を道徳法則という無機質で機械的な響きのある概念の内に求めるのは、一見すると、少し無理のある解釈であるようにも感じられてしまうことになると考えられることになります。
つまり、
こうした善意志と呼ばれる概念は、それが意志と呼ばれるからには、思いやりや優しさといった道徳的な感情、すなわち、
困っている人を見かけて思わず助けたくなってしまうといった人間におけるより自然な心の働きのあり方の内にその本質的な意味を求めるほうが、より一般的な議論であるとも考えられることになるのです。
善意志の本質が人間の心の内にある道徳的な感情ではなく道徳法則の内に求められる理由
それでは、
それにもかかわらず、なぜ、カントの倫理学においてこうした善意志の概念は、人間の心の内から発する道徳的な感情といったより自然で自発的な心の働きのあり方ではなく、道徳法則の内にその本質的な意味のあり方が求められていくことになるのか?ということについてですが、
それについては、一言でいうと、
道徳的な感情に基づく行動というものは、それが自発的に他者や社会に良い影響をもたらす行為へとつながるとはいっても、
カントの倫理学における「無条件に善いこと」としての善意志の定義を厳密な意味においては満たしていないということにその理由が求められることになると考えられることになります。
例えば、
道を歩いている時に、目の前の人が突然倒れて苦しみ出したとしたら、通常の場合、その姿を見ている人の心の内には、何とかしてその人のことを助けてあげたいという道徳的な感情が自然に沸き起こり、それが人助けをするという善なる行為へと結びついていくことになると考えられるわけですが、
このように、人間の感情というものは、自らで選んでそうした感情を引き起こしているというわけではなく、意図していなくても自然に感じてしまうものであると考えられることになります。
そして、そうすると、
このような道徳的な感情の存在を人間における普遍的な道徳の源泉にある善意志の本質的な意味として位置づける場合、
もしも、何らかの原因によって自分の目の前にいる人が苦しんでいても何の感情も感じない人がいた場合、
その人にとっては、それ以上、目の前で苦しんでいる人を助けようとしなければならない道徳的な理由はどこにも無くなってしまうとも考えられることになります。
また、
目の前に苦しんでいる人を見れば自然とその人のことを助けたいという道徳的な感情が沸き起こるような通常の人間にとっても、
もしも、その人が自分の心の内にある道徳的な感情のみに基づいてそうした善行を行ったとするならば、
それは、ある意味では、その人を助けないで放置しておくことによって自分自身の感情が害されることになるという自分自身の心における感情的な利益のためにそうした善行を行っているとも解釈することができてしまうと考えられることになるため、
そういった意味においても、
こうした道徳的な感情の存在は、人間における普遍的な道徳と倫理のあり方を基礎づける善意志の本質的な意味として位置づけられるには不十分な存在であると考えられることになるのです。
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以上のように、
人間の心の内にある道徳的な感情の存在は、それがカントの倫理学における「無条件に善いこと」としての善意志の定義を厳密な意味においては満たしていないという点において、
人間における普遍的な道徳と倫理のあり方を基礎づける善意志の本質にあたる存在として捉えることはできないと考えられることになります。
そして、それに対して、
カントの倫理学においては、
自分の心の内にある道徳法則に自らの意志によって自発的に従って行動することこそが、真の意味における善の実現、
すなわち、善意志に基づく自発的で無条件な善の実現にあたる行為として位置づけられていくことになると考えられることになるのです。
・・・
次回記事:仮言命法とは何か?ドイツ語における具体的な定義とカントの『実践理性批判』における具体例
前回記事:善意志とは何か?カントの倫理学における「無条件に善いこと」としての善意志の定義と道徳法則との関係
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