「我思うゆえに我在り」から「我在るがゆえに宇宙が在る」へと至るデカルト哲学の宇宙論的転回としての人間原理の位置づけ
前回までの一連の記事のなかでは、現代の宇宙物理学における主流派の宇宙の捉え方である宇宙原理に対抗する人間原理と呼ばれる宇宙の観測者としての人間の側の原理を主体とする新たな宇宙観のあり方について詳しく考察してきましたが、
さらに言うならば、こうした人間原理における宇宙観は、哲学史の流れのなかでは、「我思うゆえに我在り」という言葉で有名なデカルトの観念論哲学や自我哲学のあり方が宇宙論的な方向へと展開していくことによって生み出された新たな宇宙観であるとも捉えられることになります。
デカルト哲学における第一原理と現代の宇宙物理学における人間原理の関係
「我思う、ゆえに、我在り」(cogito ergo sum、コギト・エルゴ・スム)とは、17世紀のフランスの哲学者であるルネ・デカルト(René Descartes、1596年~1650年)の哲学における一つの標語となる言葉ですが、
この言葉は、一言でいうと、
思惟するあるいは知覚するといった人間の意識の働きによって第一にその存在が明らかとなるのは、そうした思惟や知覚といった意識の働きの主体となっている自分自身の意識の存在であり、
そうした思惟する存在としての自己意識の存在こそが世界の内のあらゆる存在の中で最も確実で明証的な真理であるということを意味していて、
デカルトは、こうした思惟する存在としての自我や意識の存在を哲学の第一原理として定めることによって、哲学史における新たな観念論哲学や自我哲学の道を切り拓いていった哲学者であると考えられることになります。
そして、
デカルトの観念論哲学においては、こうした人間における自我や意識の存在に基づいて、神の存在証明や外界の存在証明へと通じる議論も展開されていくことになるのですが、
それに対して、
現代の宇宙物理学における人間原理に基づく宇宙観においては、そうしたデカルトの哲学における第一原理である思惟する存在としての私、
すなわち、宇宙の内に存在するあらゆる存在を観測してそれについて思惟する存在である人間の自我や意識といった存在が、現実の宇宙の構造を成り立たせている究極の原理としても捉え直されていくことになると考えられることになるのです。
「我思うゆえに我在り」から「我在るがゆえに宇宙が在る」へと至るデカルトの自我哲学の宇宙論的転回
前回も書いたように、
人間原理に基づく宇宙観においては、現実の宇宙の構造のあり方は宇宙の観測者としての人間の存在を生み出すような適切な条件を満たす形に限定される必要があるという考え方に基づいて、
究極的には、現在の宇宙の存在自体が、無数の可能的な宇宙のうちの一つの宇宙がその宇宙の観測主体となる一つの知的生命体である人類の存在を生み出した瞬間に現実化したものであると捉えられていくことになります。
そして、こうした人間原理における宇宙の捉え方においては、
現在からおよそ138億年前にビックバンによって宇宙が誕生して、それから46億年前ごろまでに現在の太陽系の基礎となる姿が形づくられ、そうした太陽系のうちの一つの惑星である地球上に38億年前に最初の生命が誕生し、現在における知的生命体としての人類の存在へと至るという時系列的な位置関係とは逆転する形で、
時系列的には後に位置づけられる宇宙の観測者となる知的生命体としての人間という存在の側から現実の宇宙の構造のあり方が宇宙誕生の時点における過去にまでさかのぼって順々に決定されていくことになると考えられるのですが、
前述したデカルトの自我哲学における「我思う、ゆえに、我在り」という言葉においても、時間的な順番としては、思惟する主体としての私の存在の方が先に存在していて、その後になって思惟や知覚といった私の意識の働きが生じるはずなのに、
論理的な存在根拠の関係としては、そうした時間的に後にくるはずの私の思惟の働きによって思惟する存在としての私の存在自体が根拠づけられるという考え方が示されていくことになるように、
こうした時間的な位置関係と論理的な存在根拠の関係との逆転現象は、前述したデカルトの自我哲学においてもまったく同様の論理展開の構造を見出すことができると考えられることになります。
つまり、そういった意味においては、
現代の宇宙物理学における人間原理に基づく宇宙観は、こうした17世紀のフランスにおいてはじまったデカルトの観念論哲学や自我哲学に大本の源流を見いだすことができる宇宙の捉え方であると考えられることになり、
一言でいうと、そこでは、
デカルトが唱えた「我思うゆえに我在り」という言葉が示す自我哲学のあり方から、さらに一歩進んで、
宇宙を観測する主体である私が存在するがゆえに宇宙が存在するということを意味する「我在るがゆえに宇宙が在る」という言葉によって言い表すことができるような
デカルトの自我哲学の宇宙論への転回が行われていると捉えることができると考えられることになるのです。
・・・
次回記事:宇宙人が地球に来ない理由を説明する古代ギリシアの哲学者ゴルギアス流の三重の否定の論理に基づく簡潔な論理展開
前回記事:人間原理の宇宙観によって地球外知的生命体の存在が否定される理由とは?観測者を生み出す条件が整った瞬間に現実化する宇宙
「宇宙論」のカテゴリーへ
「意識・自我・魂」のカテゴリーへ
「デカルト」のカテゴリーへ