「きれいは汚い、汚いはきれい」とはどういう意味か?美の概念の相対性についての示唆と人間の人生における栄華と凋落の変転

前回書いたように、シェイクスピアの四大悲劇のうちの一つにも数えられる戯曲である『マクベス』(Macbethにおいて語られている

「きれいは汚い、汚いはきれい」という台詞については、

この言葉の英語の原文である

Fair is foul, and foul is fair.(フェア・イズ・ファゥル、ファゥル・イズ・フェア)

という言葉に用いられているfair(フェア)foul (ファゥル)という単語が、それぞれ文脈に応じて様々な意味を表す単語として用いられる多義的な言葉であることから、

上記の英語の原文に対する日本語の訳語についても、「きれいは汚い、汚いはきれい」という一般的な訳し方のほかに、「良いことは悪いこと、悪いことは良いこと」といった訳し方なども可能であると考えられることになります。

そして、このように、

もとの英語の原文において使われている単語自体の意味の幅に大きな広がりがあるということは、それに応じて、こうした「きれいは汚い、汚いはきれい」といった言葉全体の意味の解釈のあり方についても大きな意味の広がりがでてくると考えられることになるわけですが、

そこで、今回の記事では、

こうした『マクベス』で語られている台詞と類似した考え方が示されていると考えられる古今東西ことわざや故事などとの比較を交えながら、

「きれいは汚い、汚いはきれい」という言葉全体の意味の解釈のあり方にいて、もう少し詳しく考えていきたいと思います。

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「ロバにはロバが美しく、ブタにはブタが美しい」と「きれいは汚い、汚いはきれい」に共通する美の概念の相対性についての示唆

こうしたシェイクスピア『マクベス』における「きれいは汚い、汚いはきれい」という言葉と共通する意味内容を表していると解釈することができる言葉としては、

例えば、まず、

シェイクスピアのすぐ後の時代を生きた17世紀イギリス博物学者であるジョン・レイの言葉として伝えられている

「ロバにはロバが美しく、ブタにはブタが美しい」

といった格言が挙げられることになると考えられることになります。

この格言においては、

ロバにとっては自分と同族であるロバの姿魅力的で美しく感じられ、ブタにとってはブタの姿が美しく惹きつけられるように感じられるのに対して、

ロバがブタの姿を見て美しいと感じるとか、それとは反対に、ブタがロバの姿にたまらなく惹きつけられるといったことは、通常の場合はあり得ないと考えられるというように、

人間が美しいと思っている姿形というものも、必ずしもすべての存在に共通するような普遍的な美の観念のことを意味しているわけではなく、

そうした美や醜といった概念は、人間やロバやブタといったそれぞれの生物の種族の立場に応じて見え方が異なってくるような相対的な概念にすぎないということが示唆されていると考えられることになります。

そして、

こうしたジョン・レイ「ロバにはロバが美しく、ブタにはブタが美しい」という格言と同様に、

シェイクスピア『マクベス』における、「きれいは汚い、汚いはきれい」という有名な台詞についても、

それは、

神や善人にとっては美しくきれいに見えるものも、悪魔や魔女にとってはかえって忌々しく醜い存在に感じられることがあり、

それとは反対に、善良な人々にとっては忌み嫌うべき汚らわしい悪徳が、悪魔や魔女にとっては最もきれいな美徳として喜ばれることになるというように、

それは、きれいと汚い美と醜といった概念のあり方についての価値の相対性のことを意味している言葉として捉えることができると考えられることになるのです。

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「塞翁が馬」の故事とマクベスの人生における栄華と凋落の変転

その一方で、

こうした『マクベス』において語られている「きれいは汚い、汚いはきれい」という魔女たちの台詞を、この先、彼女たちが悲劇へと導いていくことになるマクベスの人生における栄華と凋落を暗示させる言葉として捉えていく場合には、

それは、中国の故事でいうところの「塞翁が馬」(さいおうがうま)の故事とも共通するような意味内容を表している言葉として解釈することができると考えられることになります。

「塞翁が馬」とは、昔、中国の北方の辺境の地に塞翁と呼ばれる老人が住んでいて、ある時、塞翁は、自分が飼っていた馬が隣国に逃げてしまうという不幸に見舞われてしまったものの、そののち、逃げた馬が別の名馬と番いになって戻ってくるという幸運に恵まれることになり、

その後、今度は、その名馬に乗っていた自分の息子が足を骨折してしまうという不幸に見舞われたものの、そのおかげで息子は隣国との戦争の際に兵役を免れて命が助かったというように、

人間の人生は、幸と不幸良いことと悪いこと常に変転していく予測ができない定まりのないものであるということのたとえとして示されている古代中国の前漢の時代の故事ですが、

こうした「塞翁が馬」の故事と同様に、シェイクスピア『マクベス』においても、

主人公のマクベスは、三人の魔女たちが語る予言に惑わされて、ダンカン王を暗殺することによって、一度はスコットランドの王の座にまで登りつめるという栄華と幸運に恵まれたのち、

その後、結局は、自らが成してきた悪しき行為に対する報復や、味方の裏切りにあって敗北して追い詰められていくという凋落と滅亡の道を歩んでいくことになるというように、

そこでは、良いことが原因となって悪しきことが起こるというマクベスという一人の人間の人生における幸と不幸栄華と凋落の変転のあり方を暗示させる言葉として、

「きれいは汚い、汚いはきれい」あるいは「良いことは悪いこと、悪いことは良いこと」という言葉が語られていると解釈することもできると考えられることになるのです。

・・・

以上のように、

シェイクスピア『マクベス』において語られている「きれいは汚い、汚いはきれい」という言葉は、

17世紀イギリス博物学者であるジョン・レイ「ロバにはロバが美しく、ブタにはブタが美しい」という格言や、

古代中国の前漢の時代の故事である「塞翁が馬」の故事などにも共通するような考え方が示されている言葉であると解釈することができると考えられることになります。

そして、いずれにしても、

こうした『マクベス』において三人の魔女の口を通じて語られている「きれいは汚い、汚いはきれい」あるいは「良いことは悪いこと、悪いことは良いこと」という言葉においては、

きれいと汚い美と醜善と悪といった価値は、常に互いに表裏一体の関係にある相対的な概念であり、

人間の人生は、そうした互いに対立する二つの対極的な要素が、互いに入違いになって現れ、時には反転していくという定めのない不確かなものでありながら、

そうした一つ一つの要素が人生の中で、常に揺れ動き、たゆたっていくことによって、その人物自身の人生全体が豊かに彩られていくことになるということが示されていると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:「ロバにはロバが美しく、ブタにはブタが美しい」というイギリスの博物学者ジョン・レイの言葉の具体的な意味とは?

前回記事:「きれいは汚い、汚いはきれい」という言葉が語られる『マクベス』の場面と、同じ英語の原文に対する二通りの訳し方とは?

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