『風の谷のナウシカ』で語られている自然物と人工物、清浄と汚濁を超越した生命そのものの存在に至上の価値を見いだす思想
前回書いたように、漫画版の『風の谷のナウシカ』の終盤の場面にあたる旧世界の記憶の庭の番人であるヒドラとナウシカとの問答の場面では、
腐海の森も、森と共に生きる現在の人類も、かつて高度な科学技術を持った文明を築いていた旧世界の人類の手によって造り出された人工的な生命体であったというこの物語における最大の秘密が解き明かされていくことになります。
それでは、
こうした世界の残酷な真実の姿を目の当たりにしてしまったナウシカは、
それでもなお、森と生きる現在の人々と共に、さらに前へと進み続けるために、いったいどのような形で自らが生きるべき指針となる思想を見いだしていくことになったと考えられることになるのでしょうか?
自然物か人工物かによらず常に同一である生命の価値と、苦悩の深さによって決まる生命の偉大さ
旧世界の記憶の庭の番人であるヒドラとの論争の中で、
「世界を清浄と汚濁に分けてしまっては何も見えない」(『風の谷のナウシカ』第七巻、130ページ。)と語り、
腐海の森と王蟲が旧世界の人類の手によって造り出された人工的な生命にすぎなかったというこの物語の最大の秘密を解き明かしたナウシカに対して、
今度は、それまでナウシカの傍らに寄り添って彼女を導いてきた森の人であるセルムが語りかけ、二人の間で、以下のような会話が交わされていくことになります。
・・・
セルム「あなたの考えは私達の一族を根底から揺るがします。」
「森はひとつの聖なる生命体と私達は感じて来ました。」
ナウシカ「わたし、いまもそう感じています。」
「個にして全、全にして個。ある偉大な王蟲がそう教えてくれました。」
セルム「判りません。その王蟲を愚かな人間が造ったなどと。」
ナウシカ「たとえ、どんなきっかけで生まれようと、生命(いのち)は同じです。…」
「精神の偉大さは苦悩の深さによって決まるんです。」
(『風の谷のナウシカ』第七巻、132~133ページ。)
ちなみに、
この場面におけるのナウシカの「個にして全、全にして個」という言葉においては、
古代インドのウパニシャッド哲学における梵我一如の思想や、ユングの集合的無意識にもつながる考え方が示されているとも考えられることになりますが、
それはともかくとして、
この場面において、ナウシカは、
腐海の森の王である王蟲も、その森のほとりに生きる現在の人類をも含むこの世界のあらゆる生物たちも、
いかなる自然の神秘の力によって生み出された奇跡の賜物でもなんでもなく、
そのすべてが人工的な技術によって生み出された単なる造り物の生命にすぎないと理解した後でも、
それでもなお、そうした人工的な生命体をも含めたあらゆる生命が、それが生きているということだけで、この世界の内で最も偉大で神聖な存在であるということは矛盾なく成立するという確信的な主張を表明していると考えられることになります。
そして、ここでは、さらに、
その生命が自然物の内に備わったものであろうと、人工物の内にあるものであろうと、
あるいは、その生命体が、はたから見て、清浄な美しい生き物に見えようと、汚濁にまみれた不浄な醜い生き物に見えようと、
その生命自体の価値は常に同一で、互いに等価値であり、
そうした一つ一つの個としての生命が、どれほど優れた力を持った偉大な存在であるのかということは、
その生命体が人工的な技術によって生み出されたのか、それとも、自然の神秘の力によってうみだされたのかという生命の出自のあり方によってではなく、
ひとたび世界の内に生み落とされた生命が、その人生の中で具体的にどのような選択と経験を積んでいくことになり、それぞれの選択の過程において、どのような思考と苦悩を積み重ねてきたのかという
そうした生命の自らの意志に基づく思考と経験の積み重ねによる生命自身の自己展開のあり方によって決まるという主張がなされていると考えられることになるのです。
清浄と汚濁を超越した生命そのものの存在に至上の価値を見いだす思想
そして、こうしたヒドラと森の人との一連の対話を経たのち、
ナウシカは、腐海の森や王蟲、現在の世界の内に存在するすべての生命体を造り出した現在の世界の創造主である旧世界の人類たちの影と対決するために、
旧世界の人類が残した高度な文明の技術が封印されている場所である墓所と呼ばれる土鬼帝国の聖都シュワの内奥部へと進んで行くことになり、
物語は最終盤のクライマックスの場面へと一気に向かっていくことになるのですが、
ナウシカは、墓所の内部において、そうした現在の世界の創造主たちと対峙した際に、腐海の森と現在の人類たちを造り出した旧世界の人類たちのことを指して以下のような言葉を語っていくことになります。
・・・
「その人達はなぜ気づかなかったのだろう。清浄と汚濁こそが生命だということに。」
「苦しみや悲劇や愚かさは清浄な世界でもなくなりはしない。それは人間の一部だから。だからこそ苦界にあっても喜びやかがやきもまたあるのに。」
(『風の谷のナウシカ』第七巻、200ページ。)
そして、
こうした「世界を清浄と汚濁に分けてしまっては何も見えない」そして「清浄と汚濁こそが生命である」といったナウシカの言葉に表れているように、
こうした記憶の庭の不死の番人との論争や、墓所における現在の世界の創造主である旧世界の人類の影との対決を経たうえで、
腐海の森と共に生きる現在の人類にとっての唯一の救いであったはずの青き清浄の地への希望が打ち砕かれ、
王蟲も、腐海の森も、現在の人間たちも、そのすべてが旧世界の人類の手によって造り出された汚染された世界を清浄なものにするための人工的な浄化装置にすぎなかったという残酷な真実にたどり着いてしまった後でも、
ナウシカは、そのことに打ちひしがれて絶望してしまうこともなければ、こうした創造主である旧世界の人類によって定められた現状の世界の仕組みを運命として受け入れて諦めてしまうこともなく、
腐海の森と現在を生きる人々共に前を向いて自らの意志で生き続ける道を選び取るに至り、
最終的に、ナウシカは、そうした自然物と人工物、清浄と汚濁といった対立関係をも超越した生命そのものの存在に至上の価値を見いだすという思想へと行き着くに至ったと考えられることになるのです。
・・・
次回記事:『風の谷のナウシカ』とシェイクスピアの『マクベス』の共通点とは?光と闇、清浄と汚濁の両面をあわせ持つ存在としての生命
前回記事:腐海の森が生まれた本当の理由とは?旧世界の人類の壮大な計画によって造られた人工の浄化装置としての腐海の森の真実の姿
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