王蟲とは何か?腐海の森の命そのものを体現する再生の存在としての王蟲の姿と宮崎駿の原作漫画における王蟲の記述の全体像
前回書いたように、1984年にこの作品の原作者である宮崎駿(みやざきはやお)監督自身の手によってアニメ映画化されたことで有名な『風の谷のナウシカ』に出てくる王蟲(オーム)と呼ばれる生き物は、一言でいうと、
セラミックの刃をも弾き返す硬い装甲と、14個の眼と多数の歩脚を持った、成体の体長が80メートルにも及ぶ腐海の森における最大にして最強の蟲であり、
人間の心の内へと直接語りかけることができる高い知性と不思議な力を持った腐海の森の王とも呼ばれるべき存在であると考えられることになります。
それでは、
こうした王蟲と呼ばれる生き物は、より長大な物語として描かれている原作となった漫画作品においては、具体的にどのような形で詳しい言及がなされていて、
そこでは、どのような形でこうした王蟲と呼ばれる生物が存在していることの意味が解き明かされていくことになると考えられることになるのでしょうか?
腐海の森と王蟲は自然を破壊する人間の行いを戒めるために生まれた存在なのか?
まず、
この物語の最初の巻である第一巻においては、ナウシカの師匠でもあり、腐海の森の真実を求めて長く旅を続けてきた老剣士であるユパの言葉として、以下のような形で王蟲と腐海の森の存在についての謎が語られていくことになります。
・・・
「腐海を旅して、わしは復讐心に猛り狂った王蟲の群れが胞子をまき散らしつつ人間の村を襲うのを何度も見た。」
「腐海の生物は旧世界のすべての動植物を滅ぼそうとしているかのようだ。」
「トルメキアの神官たちは、火の七日間の戦争でこの世を汚した人間たちへの罰として神が与えた業苦だという。果たしてそうなのか?」
(『風の谷のナウシカ』第一巻、92ページ。)
そして、さらに、
こうした自然界の内に生きているあらゆる生き物たちの生命を軽んじて、自らの欲望のままに互いに殺し合う戦争の道を突き進んでいく人間の愚かさを戒める存在としての王蟲の姿については、特に、その次の巻である第二巻において詳しい描写がなされていて、
そこでは、
津波のように腐海が押し寄せてきて大地を飲み込み、人間の都市を破壊していくあり様が大海嘯(だいかいしょう)という言葉として示されていくなかで、
風の谷で最も長く生きてきた大長老である大ババ様の言葉として、以下のような形で、腐海の森が新たに生まれ、大地に広がってくことになった詳細な経緯が語られていくことになります。
・・・
「最後の大海嘯は300年前じゃった。その頃われら辺境の諸族は、エフタル※1と称えられた強大な一つの王国をかたちづくっておった。腐海はまだはるか大陸の内奥に遠く。砂漠には天の星のごとくオアシスがきらめいていたという。…」
「やがてエフタルの平和に翳(かげ)がさしはじめた。王位継承をめぐる争いが全土にとび火し、泥沼の内乱と化したのじゃ。」
「戦士たちは王蟲の甲皮の武具を競ってもとめ、武器商人は抜け殻を探して腐海を狂奔するようになった。…」
「とにかくおびただしい数の王蟲が殺された。いまも腐海をさまよう蟲使いは、帰るべき国を自ら滅ぼした呪われた武器商人の末裔だという。」
「腐海は怒りにふるえ、ついにあふれ出た無数の王蟲が発狂状態になって暴走をはじめたのじゃ。しぶきのように胞子をまき散らす蟲の津波。阻止しようとするあらゆる努力は空しく、町々は王蟲の大波に次々とのみこまれ、人々は死に、王は滅び、奇跡の技も永久に失われていった。」
「二十日の間、大海嘯はエフタル全土をおおい、自らの生命が飢餓で果てるまで王蟲の怒りはおさまらなかった。腐海から2000リーグ※2も突出して王蟲は死んだ」
「うずくまる王蟲のむくろを苗床にして胞子が菌糸を地中深くのばし、地下の水脈をさぐり当て、いっせいに発芽した。むくろからむくろへと黒い森は拡がり、砂漠はやがて広大な腐海と化していったのじゃ」
(『風の谷のナウシカ』第二巻、87~89ページ。)
※1:エフタルとは、この物語の中では、ナウシカが生きている時代よりもさらに300年ほど昔に栄えていたとされる高度な文明を持った古代国家とされていますが、
ちなみに、現実の歴史においても、エフタルという名の古代国家は存在していて、そうした現実の歴史におけるエフタルは、5世紀から6世紀頃に栄え、強大な軍事力によって中央アジア一帯を支配していた遊牧民族の大国家であったとされています。
※2:物語の設定では、1リーグは約1.8kmとされているので、2000リーグは約3600km、ちなみに、日本列島の端から端までの長さは3500kmくらいとされているので、それを少し超えるほどの長大な距離であったと考えられることになります。
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つまり、この場面においては、
人間が自らが持つ強大な力に驕って自然を破壊し、森の生き物たちをいたずらに傷つけていくたびに、その反作用として森の番人でもある王蟲の暴走を招き、
腐海の森は、そうした津波のような大進撃の末に、力尽きて死を迎えた王蟲の遺骸を苗床とすることによって新たに生まれていくという、王蟲の命を土台として形づくられていった森であったことが解き明かされていると考えられることになるのです。
腐海の森の命そのものを体現する再生の存在としての王蟲の真実の姿
そして、
物語が壮大な結末へと向かって大きく動き始める後半部分のはじまりにあたる第五巻においては、
この物語の主人公であるナウシカの視点を通して、さらに、より深い意味での
腐海の森と王蟲の存在についての考察が進められていくことになり、
そこでは、ナウシカは、以下のような形で王蟲と腐海の森の真実の姿について語っていくことになります。
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「王蟲たちは怒り狂っているんじゃない。大海嘯は愚かな人間への罰でも復讐でもなかったんだ。」
「王蟲は大地の傷口を癒そうとしているだけ。生きたまま腐海の苗床になって。」
「森なんだ。腐海そのものが動いているんだわ。わたしも森になろう。」
(『風の谷のナウシカ』第五巻、146~147ページ。)
つまり、
前述した大ババ様の言葉と同様にこの場面のナウシカの言葉においても、王蟲の体が苗床となってそこから新たな腐海の森が生まれていくという第二巻において述べられていた大海嘯の構図はそのまま引き継がれているものの、
そうした王蟲の行動や大海嘯という現象の意味づけのあり方についての大きな転換がなされていると考えられ、
ここでは、王蟲や腐海の森は、決して、人間の行いを戒めたり、それを罰するために生まれた存在として捉えられているのではなく、それはむしろ、そうした人間の愚かな行いによって傷つけられ殺されてきた生き物たちの命を再び生み出し、新たに育み直していく存在、すなわち、
あらゆる生命に等しく癒しを与え、その命を再生させていく存在として王蟲の存在が位置づけ直されていると考えられることになるのです。
・・・
ちなみに、
宮崎駿監督の別のアニメ映画である『もののけ姫』のなかでは、
山に生きるすべての生き物の生命を育み、その生と死とを司る山の神であるシシ神が人間の手にかかって首を切り落されて殺されてしまったことをサン(もののけ姫)が嘆く場面において、この物語の主人公であるアシタカが、
「シシ神は死にはしないよ。命そのものだから。生と死と二つとも持っている。」
と語る場面が描かれていますが、
そういう意味では、
『風の谷のナウシカ』における王蟲とは、
自然を破壊する人間の行いを戒める破壊者であると同時に、自らの死を苗床として新たな生命を生み出していく再生者でもあるという二重の働きをもった存在として位置づけられていると考えられ、
こうした王蟲と呼ばれる生き物の存在は、
自らの個としての命がついえても、その死を苗床とすることによって自らが新たな森を生み出す命の源となって、さらなる生命を生み出し続けるという
腐海の森の命そのものを体現する存在としても捉えることができると考えられることになるのです。
・・・
次回記事:『風の谷のナウシカ』で主人公の服の色が赤から青へ変わった理由とは?①映画版と漫画版におけるナウシカの服の色の違い
前回記事:古代中国における大蟲と『風の谷のナウシカ』における王蟲の関係とは?足を持つ生物である蟲と足を持たない豸の区別
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