ローマ帝国と漢帝国はどちらの方が大きかったのか?紀元前から紀元後にかけての二つの帝国の支配領域の変遷と最大版図の比較
古代世界において広大な領域を支配した帝国としては、第一に、イタリア半島を中心とする地中海世界全土を支配したローマ帝国の名が挙げられることになりますが、
こうした西洋における古代帝国としてのローマに並ぶ、東洋における古代帝国としては、漢帝国の名が挙げられることになると考えられることになります。
それでは、こうしたローマ帝国と漢帝国という二つの帝国においては、時代の進展に応じてどのような形での支配地域の増減が見られ、
最大版図においては、どちらの帝国の支配領域の方がどれくらい大きかったと考えられることになるのでしょうか?
紀元前120年頃の漢帝国(前漢)の最大版図と共和政ローマの比較
そもそも、
こうしたローマ帝国と漢帝国というユーラシア大陸の西と東へと分かれる二つの帝国は、
両方とも古代を代表する世界帝国であるとはいっても、両者の帝国が成立した年代や、最盛期を迎えた時期などには大きな差異があり、
歴史上において、より先に最盛期を迎えることになるのは東洋の帝国である漢帝国の方であったと考えられることになります。
漢帝国は、紀元前202年に高祖となる劉邦によって建国された歴代の中国王朝のなかでも、400年間という最も長きにわたって存続した帝国であり、
上記の図において示したように、
紀元前120年頃、その前半期にたる前漢の武帝の時代において、漢帝国は、帝国の歴史における最大版図を獲得していくことになります。
そして、
こうした武帝による治世の時代においては、
黄河の北端にあたるオルドス地方から中央アジアにまで至る西域諸国、さらには、ベトナム北部や、朝鮮半島の北半といった広大な領域が漢帝国の支配領域の内へと組み込まれていくことになったと考えられることになるのです。
一方、
このように前漢の武帝が漢帝国の最大版図を築いていた時代、ユーラシア大陸の反対側に位置するローマは、正確には、いまだ帝政が敷かれる以前の元老院と民会による合議制で政治が営まれていた共和政ローマの時代にあり、
この時代のローマは、イタリア半島統一からギリシアへと勢力範囲を伸ばしたのち、地中海の覇権をめぐるカルタゴとの戦いを制して、やっと世界帝国としての歩みを開始したばかりの段階に位置していて、
その支配領域も、この時点においては、まだ漢帝国の二分の一から三分の一程度の比較的狭い範囲にとどまっていたと考えられることなります。
紀元後180年頃のローマ帝国の最大版図と漢帝国(後漢)の比較
そして、それに対して、
ローマ帝国が全盛期を迎えるのは、前漢の武帝の時代に漢帝国が最大版図を築いてからちょうど300年後にあたる紀元後180年頃の時代であったと考えられることになるのですが、
この時代は、パクス・ロマーナ(ローマの平和)と呼ばれるローマ帝国の黄金時代を築いた五賢帝のなかの最後の皇帝として位置づけられ、
ストア派の哲学に通じた哲人皇帝としても知られているマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝による治世の時代であり、
こうした五賢帝の最後の皇帝にして哲人皇帝でもあるアントニヌス帝のもと、
現在のイタリア・フランス・スペイン・ギリシアといった南ヨーロッパの諸国から、モロッコ・アルジェリア・リビア・エジプトといった北アフリカ一帯、
さらには、トルコやシリア、ライン川を越えた現在のドイツやオーストリアの一部や、黒海北岸、イギリスの南半分の領域までもが、ローマ帝国の支配領域の内へと組み込まれていくことになったと考えられることになるのです。
一方、この時代、
漢王朝は、途中、王莽による帝位の簒奪と新の建国による17年間の王朝の断絶期をはさんだのちに、帝国の再統一を果たした光武帝のもとで後漢としてすでに再興を果たした後の時代に位置していて、
この時代の後漢としての漢帝国は、前漢の武帝の時代における最大領域にはわずかに及ばないものの、前漢の時代とほとんど同等に近い勢力を取り戻していたと考えられることになります。
漢帝国とローマ帝国の最大版図はどちらの方がどのくらい大きいのか?
それでは、
こうした漢帝国とローマ帝国の最大版図を互いに比べた場合、どちらの帝国の支配領域の方がより大きいと考えられるのか?ということについてですが、
そもそも、
古代において記された文献資料のみから、それぞれの帝国の正確な支配領域のあり方を割り出すこと自体がかなり難しい作業であると考えられるほか、古代と現代においては、それぞれ領土に含まれる地域の具体的な区分のあり方にも大きな違いがあり、
また、ローマ帝国が地中海を中心とする海洋帝国であるのに対して、漢帝国は内陸帝国であるというように、両者の帝国が支配する領域にも大きな地形上の違いがあることなどから、
二つの帝国の大きさを正確な形で直接比較することは難しいと考えられることになり、
一般的にも、
ローマ帝国の最大版図は、だいたい500~660平方キロメートルというかなり幅の広い算定がなされているほか、
漢帝国の最大版図についても、前漢の時代で610~650平方キロメートル、後漢の時代で580~650平方キロメートルというようにかなりばらつきが見られることになります。
つまり、結局のところ、こうした問題については、
前記した二つの図において示したような二つの帝国の最大版図を見比べたうえで、
歴史上の流れにおいては、紀元前の時代には漢の方がローマよりもかなり大きかったのに対して、
紀元後の時代においてはローマ帝国もそうした漢帝国に匹敵するほどの大きさへと大きく発展していったということ以上に明確な答えを導き出すことは難しいと考えられることになるのですが、
それでも、あえて、
こうした二つの帝国がどちらの方がどのくらい大きいかという問題に一つの結論をつけるとするならば、
おそらく、砂漠や荒野なども含めた陸地の領土面積だけで比べると、ローマ帝国の最大版図よりも漢帝国の最大版図の方がやや大きかったと考えられることになるのですが、
貿易や文化的交流のルートなどとしても広く活用されていた地中海なども含めた地球上全体において占める支配領域の広域さにおいては、最盛期のローマ帝国は漢帝国の最大版図を上回る領域を支配していたと考えられることになります。
ちなみに、
現在の日本の国土の総面積は約38万平方キロメートルということになりますが、そうしたことを踏まえると、
いずれにせよ、こうしたローマ帝国と漢帝国という二つの帝国は、両方とも、現在の日本の国土の13倍~17倍という古代世界においては極めて広大な領域を支配していた世界帝国であったと考えられることになるのです。
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次回記事:古代中国の歴代王朝における儒教の位置づけのあり方の違い①秦の始皇帝による焚書坑儒と前漢の武帝による儒教の官学化
前回記事:前漢と後漢の時代の中国の最大版図の大きさの比較、光武帝による漢王朝の復興と班超による西域諸都市の制圧
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