前漢と後漢の時代の中国の最大版図の大きさの比較、光武帝による漢王朝の復興と班超による西域諸都市の制圧
漢(かん)とは、紀元前202年に高祖となる劉邦によって建国された歴代の中国の統一王朝のなかでも、最も長く存続した帝国であり、
こうした漢帝国は、最後の皇帝となった献帝が、紀元後220年に、中国の三国時代において華北を統一する最大の大国となる魏を建国した曹操の長子であった曹丕に皇帝の位を禅譲することによって滅亡の時を迎えることになります。
そして、通常の場合、歴史においては、
こうした400年間という日本の江戸時代(265年間)をも超える極めて長い期間にわたって中国全土を統治した帝国である漢帝国は、
王莽による帝位の簒奪によって新の建国と滅亡によって生じた17年間の漢王朝の断絶期をはさんで、
新の建国以前の前漢と、新の滅亡以後の後漢という二つの局面へと分割して捉えられていくことになるのですが、
それでは、
こうした漢帝国の二つの局面のそれぞれにおいては、前漢と後漢のどちらの方がより大きい支配領域を有していたと考えられることになるのでしょうか?
光武帝による漢王朝の復興と班超による西域諸都市の制圧
前回の記事で書いたように、劉邦によって建国された前半期の漢帝国、すなわち、前漢は、第7代皇帝である武帝による治世の時代において最大版図が築かれ、
黄河の北端にあたるオルドス地方から、中央アジアにまで至る西域諸国、さらには、ベトナム北部や、朝鮮半島の北半といった広大な領域が前漢の支配領域のうちに組み込まれていくことになるのですが、
こうした前漢の時代に築かれた広大な版図の大部分は、前漢最後の皇太子であった劉嬰(りゅうえい)から禅譲を受けることによって新を建国した王莽の失政が招いた政治的・外交的混乱によって大きく損なわれ、
赤眉の乱を中心とする大規模な農民反乱の混乱の最中、王莽が敗死して新が滅亡していくなかで、帝国内の多くの地域が離反していってしまうことになります。
そして、
こうした帝国の混乱期を終息へと導き、農民反乱などの国内の反乱勢力をすべて平定して、それまでの長安から、新たに洛陽を都として位置づけることによって漢王朝を復興させたのが後漢の初代皇帝となる光武帝であり、
光武帝は、前漢において機能していた現実的な官僚制度と儒教的な秩序の両立をはかっていくことによって、帝国に再び中央集権的な政治体制に基づく安定した統治をもたらし、後漢王朝における政治的な基盤を築いていくことになります。
そして、その後、
後漢の第4代皇帝である和帝(わてい)の時代になると、後漢における優れた武将であった班超(はんちょう)の指揮のもと、
積極的な対外政策と、北西方面へと向けた大規模な支配領域の拡大が進められていくことになり、
敦煌より西の西域においては、一時は、前漢時代の最大版図を超えるほどの数多くのオアシス都市がその支配下へと組み入れられていくことになり、
こうした後漢の時代においては、前漢の時代と比べてもさらにユーラシア大陸全体における東西交流が盛んとなり、
後漢の時代の漢帝国は、現在のイランに位置する西方の大国であるパルティアなどとも貿易を営むと共に、さらにその西方に位置するローマ帝国とも海路を通じて一定の交流を結んでいくことになるのです。
前漢と後漢の時代の中国の最大版図の大きさの比較
以上のように、
漢帝国は、王莽による帝位の簒奪と新の建国が行われた漢王朝の断絶期においては、相次ぐ周辺諸国の離反と帝国の中心部において生じた大規模な農民反乱などの影響によって、その広大な版図の大部分を失ってしまうことになるのですが、
赤眉の乱を鎮圧し、新たに洛陽を都とする形で漢王朝の復興を成し遂げた光武帝の治世と、その後の和帝の治世の時代において活躍した後漢の武将である班超などの力によって、
こうした帝国の混乱期において失われた領土の大部分は、再び取り戻されていくことになったと考えられることになります。
しかし、その一方で、
前漢の末期において帝国の支配から脱した朝鮮半島の諸地域が再び漢帝国の支配下へと組み込まれていくことはなく、
南西部の山岳地帯を中心とする異民族の勢力の拡大などによって、長江の上流域である南西部の諸地域においても漢帝国の支配領域が縮小していくなど、そうした帝国の支配力の強さや勢いには、前漢の全盛期と比べると若干のかげりが見られるようにもなっていくこととなり、
上記の図において示したように、
全体として、後漢の時代における漢帝国の最大版図は、前漢の時代における最大版図よりも、約10%ほど小さい領域にとどまるような形となっていたと考えられることになるのです。
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次回記事:ローマ帝国と漢帝国はどちらの方が大きかったのか?紀元前から紀元後にかけての二つの帝国の支配領域の変遷と最大版図の比較
前回記事:王莽による新の建国と周辺諸国の離反と赤眉の乱による帝国の支配領域の衰退と縮小のあり方
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