秦の始皇帝が中国で最初の皇帝とされる歴史上の理由とは?始皇帝以前の古代中国の統一王朝と秦の支配領域の規模の比較
以前に「皇帝の由来とは何か?秦の始皇帝と中国神話における三皇五帝との関係」の記事で書いたように、
「皇帝」という言葉自体の由来は、秦の始皇帝が中国全土の統一を成し遂げた自らの偉業を讃えるために、
三皇五帝と呼ばれるような古代中国における伝説的な聖王たちの威光をすべて合わせるような形でこうした名称を自らの称号として選んだということに求められると考えられることになるのですが、
それでは、いったいなぜ、
秦の始皇帝がはじめて自ら「皇帝」と名乗ったのち、秦の王朝だけではなく、その後の漢や晋、隋、唐、宋、明、清といった歴代の中国の統一王朝の支配者たちも、
それ以前の王朝の支配者たちが用いていた「王」の名称ではなく、「皇帝」の名称を用いるようになっていった考えられることになるのでしょうか?
そして、そもそも、
こうした秦の始皇帝の時代における支配地域の統治のあり方と、それ以前の古代中国の歴代の統一王朝における統治のあり方には、どのくらいの規模の違いがあったと考えられることになるのでしょうか?
始皇帝以前の古代中国の統一王朝と秦の支配領域の規模の大きさの比較
まず、冒頭でも少し触れたように、
古代中国において、比較的大規模な統一王朝が築かれたのは始皇帝の時代の秦がはじめてだったというわけではなく、
それ以前の夏(か)、殷(いん)、周(しゅう)と続く古代中国の歴代王朝においても、漢民族の大部分を統治する統一王朝がすでに築かれていたと考えられることになります。
しかし、上記の図で示したように、
そうした古代中国の歴代王朝の中でも最大の支配領域を築いた王朝である周王朝においても、
その最大版図は、黄河の中・下流域を中心とする現在の中国のごく一部の領域に限られていて、華北の残り三分の一程度の領域と、華南の大部分の領域はその支配地域の外にとどまり続けていたと考えられることになります。
そして、
そうした夏・殷・周と続く古代中国の歴代王朝の最後にして最大の統一王朝であった周の分裂をきっかけとして始まるその後の春秋戦国時代においても、
分裂以前の周の支配領域の大きさを超えるような大国が現れることはなく、そうして分立諸国の内で規模や勢力が最も大きかった国々として知られる戦国の七雄と呼ばれる秦・楚・燕・斉・韓・魏・趙の七か国の領土をすべて足し合わせても、
せいぜい、分裂前の周王朝の1.5倍程度の大きさにしかならなかったと考えられることになります。
そして、その後、
のちに始皇帝と呼ばれることになる嬴政(えいせい)がわずか13歳の若さで、そうした戦国の七雄の内の一国である秦の王位を継承すると、
秦王政が率いる秦の軍勢は、隣国であった韓と趙、北方の燕に、残った隣国である魏、さらには、東方の大国である楚と斉という自らを除く戦国の七雄の残りの六国を次々に攻め滅ぼしていき、
これらの国の領土をすべて手中へと収めることによって、分裂以前の周などの古代中国の歴代王朝と同様に、黄河の中・下流域である華北の統一を成し遂げていくことになります。
しかし、
始皇帝の時代の秦の進撃はここでとどまることなく、さらに先へと進んで行くことになり、
まずは、
中国の北辺を常におびやかし続ける脅威となっていた北方の遊牧民族である匈奴を30万の軍勢の大遠征によって討伐し、
オルドスと呼ばれる黄河の北端の地域を新たに領土へと加えたうえで、こうして手に入れた新領土の確保と北辺一帯の国土の防衛のために、
春秋戦国時代のうちから建設されていた長城の大規模な修築と延長が行われることによって、万里の長城の建設が進められていくことになります。
そして、
始皇帝の軍勢は、こうした北方の遠征だけではなく、南方においても大規模な領土の拡大を進めていくことになり、
長江の南へと50万の大軍を進軍させて、華南地方全体を次々と征服していき、上記の図において示したように、中国南部に南海郡(なんかいぐん)・桂林郡(けいりんぐん)・象郡(しょうぐん)と呼ばれる三郡を置くことによって、
華南地方から、現在のベトナム北部に至るまでの南方の支配権までも確立していくことになったと考えられることになるのです。
秦の始皇帝が中国における最初の皇帝とされる歴史上の理由
以上のように、
古代中国においては、始皇帝の時代の秦以前にも、夏や殷や周といった比較的大規模な漢民族の統一王朝が築かれていた時代があったと考えられることになるのですが、
これらの古代中国の歴代王朝のうちで最大の支配領域を誇る王朝である周王朝においても、その支配は華北地方の三分の二程度の領域にとどまっていたと考えられることになります。
それに対して、
その後の周の分裂によってはじまる春秋戦国時代を乗り越えて、再び華北の統一を成し遂げた始皇帝の時代の秦においては、北方と南方への大遠征によって、さらなる領土拡大が進められていくことになり、
始皇帝の時代の秦の最大版図は、黄河の北端にあたるオルドスを含む華北地方の全域と、南海郡・桂林郡・象郡の三郡が置かれることとなった華南地方の全域、さらには、ベトナム北部の一部までもが帝国の支配領域の内に含まれることになったと考えられることになります。
そして、このような経緯から、
歴史上はじめて華北と華南を含めた中国全土の統一を成し遂げることになった秦の始皇帝が自らの称号として初めて用いた「皇帝」という称号が、
その後の漢帝国や、晋、隋、唐、宋、明、清といった華北と華南を含む中国全土を支配した歴代の中国王朝の支配者たちによっても踏襲されていくことになり、
そうした始皇帝以降の歴代の中国王朝の支配者たちが、華北地方の一部といった中国の一部や、その他の地域などの一部の限られた領域のみを支配する一国の王としてではなく、中国全土の広大な領域を支配する皇帝として統治を行うようになっていくことによって、
そうしたその後新たに皇帝を名乗っていくことになる歴代の中国王朝の支配者たちから見て、歴史上において秦の始皇帝が中国における最初の皇帝として位置づけられるようになっていったと考えられることになるのです。
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次回記事:秦の始皇帝時代の中国はどのくらい大きかったのか?現在の中華人民共和国と古代の周王朝における支配領域の大きさとの比較
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