四福音書における神の存在のあり方の八つの定義とは?キリスト教における神の定義②、神の定義とは何か?④
新約聖書において神の存在のあり方についての具体的な記述がなされている箇所について、順番に調べ上げていくと、
そのうちの主要なものとしては、前回述べたような新約聖書における22箇所の記述を挙げることができると考えられることになります。
そこで今回は、まずは、そうした新約聖書における数々の記述のなかでも、新約聖書における主要な部分を占める四つの文書であるマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書において、
具体的にどのような形で神の存在のあり方についての定義がなされているのか?ということについて、詳しく考えていきたいと思います。
マタイによる福音書における完全者としての神の定義
まず、新約聖書における四つの福音書のうちの最初の文書に挙げられるマタイによる福音書においては、前回取り上げた新約聖書における20箇所の記述の冒頭でも取り上げた
「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
(新約聖書「マタイによる福音書」第5章48節)
という記述がでてきますが、マタイによる福音書のなかのこの記述においては、その言葉がそのまま示す通り、天の父である神が、欠けるところのない完全な存在であるという、すなわち、完全者として神の定義が示されていると考えられることになります。
マルコによる福音書における善なる唯一神としての神の定義
そして、その次の福音書として位置づけられるマルコによる福音書においては、例えば、
「イエスは言われた。『なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。』」
(新約聖書「マルコによる福音書」第10章18節)
というイエスの言葉が記されていますが、上記の記述では、ただひとりの完全なる善としての神の存在、すなわち、善なる神としての神の定義が示されていると考えられることになります。
また、同じマルコによる福音書においては、
「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」
(新約聖書「マルコによる福音書」第12章29~30節)
という記述も出てきますが、新約聖書のこの箇所においては、「神を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」というキリスト教における道徳律の根幹にある二つの掟が示されるなかで、
そうした道徳律を定めている神という存在が唯一の主、すなわち、唯一神であるということも語られることになるのです。
ルカによる福音書における全知全能なる至高者にして救い主でもある神の定義
そして、第三の福音書として位置づけられているルカによる福音書においては、聖母マリアがイエスを身ごもったときに、
そのことを祝福するために神から遣わされた天使ガブリエルが語る言葉として、以下のような記述がでてきます。
「天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。』」
(新約聖書「ルカによる福音書」第1章35~37節)
上記の記述からは、マリアが身ごもった子が神の子であり、イエスと名づけるよう定められたその子が、すべての国と人々を治める偉大なる王にして聖なる人とされるという福音が告げ知らされるなかで、
そうしたことを成し遂げる神とは、いと高き方、すなわち、至高者であり、あらゆることを実現させる力を持った全知全能の神であることが語られることになります。
また、ルカによる福音書においては、他にも神についての明確な定義が示されている以下のような箇所もあり、
「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」
(新約聖書「ルカによる福音書」第1章47節)
というルカによる福音書のこの箇所の記述においては、その言葉がそのまま示す通り、救い主としての神のあり方が示されていると考えられることになります。
ちなみに、次に取り上げるヨハネによる福音書においても、上記のルカによる福音書における記述と同様の救い主としての神の定義について語られている箇所があり、そこでは、
「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
(新約聖書「ヨハネによる福音書」第3章17節)
と語られていますが、ここでは、新約聖書における神の厳しい裁定者としての側面よりも人々を救い出す救済者としての側面がより前面に提示されることによって、救い主として神の定義がより強調される形で示されていると考えられることになります。
ヨハネによる福音書における言と霊としての神の定義
そして、最後の福音書として位置づけられているヨハネによる福音書においては、その冒頭において以下のような印象的な記述がでてきます。
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
(新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章1節)
上記の記述の中にでてくる「言(ことば)」という単語は、ギリシア語の原典においては、logos(ロゴス)という単語が用いられていて、
古代ギリシア語のlogos(ロゴス)という単語は、詳しくは、古代ギリシア哲学におけるロゴスの意味の記事で書いたように、
言葉の他に、理性や論理、さらには、概念、意味、理由、根拠、秩序、原理、理法、比率といった極めて多義的な意味を持つ単語として捉えられることになるのですが、
いずれにせよ、こうしたヨハネによる福音書の冒頭の記述においては、こうした言あるいはロゴスといった単語に象徴されるような神の理性的あるいは論理的な側面が示される形で神の定義が語られていると考えられることになるのです。
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また、ヨハネによる福音書においては、他に、
「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
(新約聖書「ヨハネによる福音書」第4章24節)
という記述もでてきますが、ヨハネによる福音書のこの箇所の記述においては、神が肉体を持たない霊的な存在であるという精神的存在としての神の定義が端的に示されていると考えられることになります。
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以上のように、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、そして、ヨハネによる福音書という新約聖書を代表する四つの福音書における神の存在のあり方についての記述からは、
善なる神・全知全能・唯一神・至高者・完全者・救済者・言(ロゴス)・霊(精神的存在)
という全部で八つの神の定義を導き出すことができると考えられることになります。
そして、こうした四福音書における八つの神の定義を核としたうえで、
ローマやコリント、エフェソスといった世界各地の信徒へと送られた手紙や、新約聖書の最後の書として位置づけられているヨハネの黙示録における神についての記述が合わされて解釈されていくことによって、
新約聖書において示されている神の存在のあり方の全容がさらに明らかになっていくことになると考えられることになるのです。
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次回記事:ローマの信徒への手紙などの一連の書簡集における七つの神の定義とは?キリスト教における神の定義③、神の定義とは何か?⑤
前回記事:新約聖書において神の存在の具体的なあり方が記されている22箇所の記述
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