ロドス島の哲学者アンドロニコスによるアリストテレス著作集の編纂とローマの文法学者テュラニオン、形而上学とは何か?⑤
前回書いたように、紀元前1世紀の時代、ギリシア世界の征服を目指してこの地に侵攻していたローマの将軍スラが率いるローマ軍によって古代ギリシア哲学の中心地であったアテナイの町が占領されると、
こうしたローマ軍によるアテナイの占領と略奪を通じて得られた数々の戦利品とともに、アテナイの富豪アペリコンが個人的な蔵書として隠し持っていたアリストテレスに関する貴重な文書もローマ本国へと持ち去られることになります。
そして、こうしてローマ本国へと運び込まれたアリストテレス文書は、テュラニオンとアンドロニコスという二人の人物の手によって資料の整理と編纂の作業が進められていき、一連の著作集の体系へとまとめ上げられていくことになるのです。
ローマの文法学者テュラニオンとロドス島の哲学者アンドロニコス
紀元前84年に、アテナイからローマへと運び込まれたアリストテレスに関する文献の中には、アリストテレス自身が書き残したとされる講義のための草稿の写本や、講義録などが大量に含まれていたのですが、
こうした新たに発見されたアリストテレスに関する文書は、まずは、ローマの文法学者であったテュラニオンの手によって資料の基本的な整理が行われていくことになります。
そして、そののち、
こうしたアリストテレスに関する膨大な資料を主要なテーマごとに分類・編集して、一連の著作集の体系へとまとめ上げるための資料の編纂と公刊を行う責任者としてアリストテレス哲学を中心とした古代ギリシア哲学に精通した学者であるアンドロニコスという人物が選ばれ、
その後は彼自身の手によってアリストテレス著作集の編集と編纂作業が進められていくことになります。
紀元前1世紀の古代ギリシアの哲学者であったアンドロニコス(Andronicus)は、ギリシア本土の東方、エーゲ海の南東部に浮かぶ島であるロドス島の出身であり、
彼は、のちにアリストテレスの流れを汲む哲学の学派であるペリパトス学派(逍遥学派)の第11代目学頭にも数え上げられることになる人物でもあります。
彼の出身地であるロドス島は、アリストテレスの直弟子の一人であったロドスのエウデモスの出身地としても知られているのですが、
師であるアリストテレスの死後、エウデモスはアテナイを去って故郷のロドス島へと戻り、この地を拠点としてその後の学問研究を営んだことから、以降、ロドス島はアリストテレス研究の中心地の一つとなり、哲学などの学問研究が盛んに行われるようになっていきます。
そして、こうした経緯から、同じくロドス島の出身であるアンドロニコスも若い頃からアリストテレスの哲学に触れ、それを探究する機会に恵まれていたと考えられることからみても、
彼はアテナイからローマへと持ち去れたアリストテレスに関する文献を正しく解釈し、これをより適切な形に分類された著作集へと編纂していく作業を取り仕切る役割を担うのに、まさにうってつけの適任の人物であったと考えられることになるのです。
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以上のように、
ローマの将軍スラによってアテナイからローマへと持ち去れたアリストテレスに関する数々の文献は、ローマの文法学者テュラニオンとロドス島の哲学者アンドロニコスの手によって、資料の整理と、編集および編纂の作業が進められていくことになるのですが、
詳しくはまた次回改めて考察していくように、
日本語では「形而上学」と訳される「タ・メタ・タ・ピュシカ(ta meta ta physika)」というギリシア語の言葉の直接的な由来は、
こうしたテュラニオンとアンドロニコスの手によって進められていくことになるアリストテレスの著作の編集作業における著作編纂上の区分のあり方に求められると考えられることになるのです。
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次回記事:アリストテレスの著作編纂上の区分における「自然学の後に位置する考察」としての「メタピュシカ」、形而上学とは何か?⑥
前回記事:ローマの将軍スラによるアテナイの占領とアリストテレス文書の略奪そしてアテナイの富豪アペリコン、形而上学とは何か?④
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