悪魔の神に対する越権行為に基づく契約の不成立、メフィストがファウストの魂を奪えなかった三つの合理的な説明②
前回書いたように、ゲーテの『ファウスト』の終幕の場面において、悪魔メフィストフェレスが契約通りにファウストの魂を奪うことができなかった理由を合理的に説明する一つ目の解釈としては、
実は、終章の時点においては、ファウストとメフィストフェレスの間で交わされた契約の条件は、まだ厳密な意味においては満たされておらず、契約の執行自体が無効だったとする解釈が考えられます。
この解釈に基づくと、ファウストは、この先に訪れることになる自らの理想が実現するはずの未来の瞬間に対して「とどまれ、お前はいかにも美しい」と呼びかけているのであって、すでにその最高の瞬間を味わったと発言しているわけではないので、
自分が満足する最高の瞬間が実際に訪れたならば、自分は死んで魂は悪魔メフィストフェレスのものになってもいいと約束したファウストの契約の条件はまだ満たされていないと考えられることになります。
しかし、さらに突き詰めて考えていくと、
結局、そうしたまだ見ぬ最高の瞬間を心に思い描いたまま死んでいくことがファウストにとって最高の瞬間であり、彼にとって最良の死に方であったとも考えられることになるので、
そういった意味では、やはり、終幕の場面のあの瞬間こそが、ファウストの人生にとっての最高の瞬間であり、最善の時であったとも考えられることになります。
そして、このような解釈に従う場合でも、悪魔であるメフィストがファウストの魂を契約通りに奪い取ることができなたかったことを解き明かす合理的な理由としては、さらに別の二通りの説明が考えられることになります。
神が悪魔メフィストフェレスに対して与えた自由の権限
ゲーテの『ファウスト』においては、主人公であるファウストが登場する前の物語の序章において、
天界において、ラファエルとガブリエルとミカエルという三人の大天使と共に悪魔であるメフィストフェレスが現れて、天上の世界の主である神と直接言葉を交わす場面が描かれています。
そして、この場面において、メフィストフェレスは、ファウストが悪魔である自分の力によって惑わされ、悪の道へと堕落してしまうことがないかどうか試す許可を自分に与えてほしいと神に対して願い出ることになるのですが、
それに対して、神は以下のように語ることになります。
あの者(ファウスト)が地に生き続ける限り、おまえの行いが禁じられることはない。人間は努力する限り、常に迷い続けるものなのだから。…
ならばよし。おまえの好きにするがいい。もし、お前にあの者を捕えることができるとするならば、彼の魂をその本源から引き離し、お前の道へと引き入れるがよい。そして、おまえがついにこのことを認めざるを得なくなった時には、深く恥じ入るがいい。善い人間は、たとえ自らの暗い衝動によって突き動かされても、その中にあって必ず正しき道を見いだすのだと。
(『ファウスト』第一部の序章「天上の序曲」)
つまり、この場面において、神は、
「あの者が地に生き続ける限り、おまえの行いが禁じられることはない」という言葉によって、メフィストフェレスが地上で自由に振る舞うことができる許可を与えたうえで、
さらに、「彼の魂をその本源から引き離し、お前の道へと引き入れるがよい」という言葉によって、ファウストの魂を悪魔であるメフィストフェレスの手の内へと引き入れる許可まで与えていて、
こうした神との対話によって得られた許可と権限に基づいて、上記のファウストとメフィストフェレスとの間での魂の契約がなされることになったと考えられることになるのです。
人間であるファウストとの間の契約と、神に対する越権行為
すると、ここで問題となるのは、神が悪魔であるメフィストフェレスに対して与えた許可について語っている正確な文言であって、
ここでは確かに、「おまえの行いが禁じられることはない」「おまえの好きにするがいい」という言葉によって、ファウストの人生に対してメフィストフェレスが自由に干渉する全幅の権限が与えられていると考えられるのですが、
そうしたメフィストフェレスの権限は、あくまで、「ファウストが地に生き続ける限り」という地上の世界の内に限定された権限であると考えられることになります。
つまり、
神が悪魔であるメフィストフェレスに与えた権限、その悪の力が及ぶ領域は、
あくまで、肉体を持って地上の世界に生きている人間としてのファウストを自由にしてよいという権限であって、
本来、天上の世界に属する存在である人間の魂についての取り決めは、そもそも神に与えられた権限を越える領域についての問題であったと考えられることになるのです。
したがって、こうした解釈に基づくと、
人生の中で自分の心が最も満たされる最高の瞬間を味わい、死を迎えるファウストに対して、メフィストフェレスは彼との約束通りにその魂を奪おうとすることになるのですが、
肉体の死を迎えて純粋な魂だけの存在となったファウストに対して、もはや天上の世界に属する存在となったその魂を奪おうとする行為は、
地上の世界の内においてのみ自由に振る舞うことを許されていた悪魔メフィストフェレスの神に対する越権行為ということになるので、
ファウストと契約を交わす以前に結んでいた神との間の契約違反によって、メフィストフェレスの手による契約の執行は即座に停止されてしまうことになったと考えられることになるのです。
・・・
以上のように、
『ファウスト』第一部の序章において語られている神と悪魔メフィストフェレスとの間の対話内容に基づくと、
メフィストフェレスがファウストの人生に自由に干渉する権限を与えられていたのは、あくまで、彼が地上の世界の内に肉体を持って生きている間だけであって、
彼が肉体の死を迎え、その魂が天上の世界へと還っていく段階においては、その権限自体がすでに失効してしまっていると考えられることになります。
したがって、
もともと天上の世界に属する存在である魂自体を自由に扱う権限は地上の世界の内においてのみ自由を与えられていた悪魔メフィストフェレスには存在せず、
そうした本来天上の世界に属するものに手を出すことは、人間であるファウストとの間の契約以前に、神に対する越権行為であることから、
ファウストとの間に結ばれた契約は前提自体が不成立の無効な契約となってしまい、そのため、メフィストフェレスはファウストの魂を自分のものにすることができなかったと考えられることになるのです。
・・・
次回記事:地上の世界と天上の世界におけるファウストの魂の二重の行方、メフィストフェレスが魂を奪えなかった三つの合理的な説明③
前回記事:メフィストがファウストの魂を奪えなかった三つの合理的な説明とは?①契約の条件が十分に満たされていなかったとする解釈
関連記事:「天上の序曲」における神と悪魔メフィストフェレスの問答①神の言葉による悪魔の定義、『ファウスト』の和訳④
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