メフィストがファウストの魂を奪えなかった三つの合理的な説明とは?①契約の条件が十分に満たされていなかったとする解釈
「ファウストと悪魔メフィストフェレスの魂の契約」の記事で書いたように、
ゲーテの『ファウスト』の物語の主人公であるファウストは、悪魔メフィストフェレスとの契約によって、自分が生きている限りメフィストフェレスを自らの僕として悪魔の力を自由に操ることができる代わりに、
その引き換えとして、自分が死んだ後には、その魂をメフィストフェレスへと引き渡すという契約を結びます。
しかし、
実際には、ファウストの死に際して、上記の契約がその言葉通りに果たされることはなく、
物語の終幕の場面において、ファウストの魂は、悪魔であるメフィストの手には渡らずに、彼の周りを取り囲む天使たちによって守られ、天上の世界へと引き上げられていくことになります。
このように、ゲーテの『ファウスト』においては、
一見すると、ファウストとメフィストフェレスの間で結ばれた約束が、それが悪魔との間に結ばれた契約であるとはいえ、あまりに理不尽な形で反故にされているようにも思われるわけですが、
このように、メフィストフェレスがかねてからの契約通りにファウストの魂を奪い取ることができなかったことを正当化する合理的な説明としては、具体的にどのような理由が挙げられると考えられることになるのでしょうか?
物語の冒頭と終幕の場面におけるファウストの実際の発言内容の違い
まず、物語の冒頭に近い場面で、ファウストがメフィストフェレスに対して語った約束の文言は、正確には以下のような言葉として語られています。
私が瞬間に対して、とどまれ、お前はいかにも美しいと言ったならば、私はよろこんで滅びようではないか。死を告げる鐘の音が鳴り響くがいい。お前も私に仕える勤めから解放される。時計はその歩みを止め、針は落ちるがいい。私にとって時はすでに過ぎ去ったのだ。
(『ファウスト』第一部の「書斎」の章)
つまり、この箇所でファウストは、
自分が自らの人生に満足しきってしまい、自分にとっての最高の瞬間が実際に訪れ、それがすでに過ぎ去ってしまったと語ったならば、
その瞬間に自分は命を失って死を迎え、魂は悪魔であるメフィストフェレスの手に引き渡されることになってもかまわないという約束を結んでいると考えられることになります。
それに対して、
メフィストフェレスが上記の契約の言葉が果たされたと考え、ファウストの肉体を滅ぼして魂を奪い取ろうとする物語の終幕に近いの場面において語られるファウストの言葉は、正確には、以下のようになっています。
ファウストは、自らの手による理想郷の建設事業が成し遂げられたのちの新しい世界に住むことになるまだ見ぬ自由な人々のことを心の内に思い描きながら次のように語ることになるのです。
…私はそのような群衆を見つめながら、自由な土地の上に、自由な民と共に立ちたいのだ。そうした瞬間に向かってならこう呼びかけてもいいだろう。とどまれ、お前はいかにも美しいと。
(『ファウスト』第二部第五幕の「宮殿の大きな前庭」の章)
そして、メフィストフェレスは、
ファウストの上記の文中で語られている「そうした瞬間に向かってならこう呼びかけてもいいだろう。とどまれ、お前はいかにも美しいと。」という言葉を聞いて、
かねてからの契約の言葉がついに果たされたと考え、ファウストの肉体を滅ぼして命を奪ったうえで、その約束通りに彼の魂を奪い取ろうとすることになるのです。
二人の間の契約の条件は本当に厳密な意味で満たされていたと言えるのか?
しかし、ここでよくよく考えてみると、
ファウストは、はじめのメフィストフェレスとの契約の場面では、
「私が(実際に訪れた)ある瞬間に対して、とどまれ、お前はいかにも美しいと言ったならば、私はよろこんで滅びよう」
と言っているのに対して、終幕に近い場面において語られるファウストの言葉の方は、
「(もしもそうした瞬間が訪れたとするならば)その瞬間に向かってならこう呼びかけてもいいだろう。とどまれ、お前はいかにも美しいと。」
となっているように、
上記の二つのファウストの発言には、まったく同じ「とどまれ、お前はいかにも美しい」という文言が共に含まれてはいるものの、両者の発言には微妙なニュアンスの違いがあると考えられることになります。
つまり、
契約の場面において、ファウストは、自分が満足する最高の瞬間が実際に訪れたならば、自分は死んで魂は悪魔メフィストフェレスのものになってもいいと約束したのに対して、
メフィストフェレスがその約束が果たされたと考えた終幕に近い場面で語られていファウストの言葉では、彼は、自分がまだ見ぬ未来の瞬間に向けて、それが最高の瞬間となるだろうと語っていると考えられるように、
上記の発言の段階においては、ファウストは、そうした最高の瞬間が必ず来るだろうと確信をもって予期しているだけで、まだ実際には最高の瞬間を味わったとは発言しておらず、
二人の間の契約は、厳密な意味においては、ファウストがはじめに語った文言の通りには、いまだ成立していないとも解釈できることになるのです。
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以上のように、
「とどまれ、お前はいかにも美しい」という言葉が語られる契約の場面と終幕の場面における二つのファウストの発言を比べてみると、
終幕の場面においては、ファウストはまだ見ぬ最高の瞬間を予期しているだけで、いまだその最高の瞬間を現実のものとしては味わっておらず、厳密な意味においては、二人の間での契約の条件は十分には満たされていなかったとも解釈できることになります。
そして、上記のような解釈に従うと、
メフィストフェレスは、まだ契約の条件が十分に満たされていないうちに、自分の早とちりでファウストの肉体を滅ぼして、魂を奪い取ってしまおうとしたので、
実際には発効の条件を満たしていな契約の執行は無効となり、そうした二人の間での契約とは無関係に、天使たちがファウストの魂を天上の世界へと救い上げることが可能となったと考えられることになるのです。
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次回記事:悪魔の神に対する越権行為に基づく契約の不成立、メフィストがファウストの魂を奪えなかった三つの合理的な説明②
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