神が1人の善人のためにソドムを滅ぼすのをやめなかった理由とは?アブラハムによるソドムの町のための執り成し②
前回書いたように、
旧約聖書の「創世記」におけるソドムの町のための執り成しを巡るアブラハムと神との間の対話では、
ソドムが滅亡から免れるために必要な善人の数が10人まで絞られたところで議論が終わりとなり、
聖書の中の話の流れは、神のもとから遣わされた二人の天使たちがソドムの町へと降り立ち、町で行われている悪徳がどのようなものであるのかを自らの目で見定めたうえで、実際にソドムの町が硫黄の火によって焼き滅ぼされていく場面へと移り変わっていくことになります。
999人の悪人のために残りの1人の善人を見捨てる神の審判への疑問
そして、
神がその前のソドムの町のための執り成しの場面において、アブラハムからの問いかけを聞き入れたうえで、ソドムの町に10人の善人がいればこの町を滅ぼすのをやめるという約束をアブラハムと交わしたということは、
逆に言えば、
ソドムの町にいる善人の数が10人に満たない場合は、例えば、ソドムの町に9人の善人がいる場合でも、神はその9人の善人のためにはソドムを町ごと焼き尽くして滅ぼしてしまうことを思いとどまることはないということを意味することにもなります。
そして、以上のような解釈に基づくと、
ここにおいて、ソドムの町を滅ぼす審判を下そうとしている神に対して一つの疑問が生じると考えられることになります。
それは、神が本当に全能であり、限りなく善なる存在でもあるとするならば、
アブラハムの問いかけに対する神の答えは、「わたしはソドムの町を10人の善き人々のために滅ぼさない」という聖書に書かれている通りの答えだけではまだ不十分であり、
限りなく慈悲深い存在である神の答えとしては、
「たとえ1人でも善良な人がいたとするならば、その人のために私はソドムを滅ぼさない」というのが本当に正しい答えということになるのではないか?という疑問です。
つまり、
ソドムの町に巣食う残りの999人の悪人に正当な裁きを下すためであるとはいえ、
そのために、町に取り残されている1人の何の罪もない善人を見捨ててしまう行為は、やはり完全な善なる行為とは言えず、それはむしろ、全能で善なる存在である神は決して行うことがないはずの悪の行為ということになってしまうのではないか?という疑問が出てくるということです。
そして、
この問題について合理的に解釈するための解決策を得るためには、「創世記」の「アブラハムの執り成し」の章だけではなく、
旧約聖書の前後の章における記述との整合性という観点から、解釈を進めていくことが必要であると考えられることになります。
「ソドムの滅亡」におけるロトの四人家族の逃避行
旧約聖書の「創世記」において、「アブラハムの執り成し」の章の次には、「ソドムの滅亡」の章が続くことになりますが、
その「ソドムの滅亡」の章では、神がソドムへと遣わした二人の天使たちと神自身の手によってソドムの町に焼き尽くす硫黄の火が降り注がれる前に、
ソドムに残された最後の善き人々であった、ロトとその妻、そして二人の娘という四人家族が天使たちによってソドムの町の郊外へと連れ出され、
焼き滅ぼされる運命にあるソドムの町を離れて、山の麓の小さな町まで逃げのびるための十分な猶予が与えられることになります。
つまり、
確かに、アブラハムの問いかけに対する神の答えは、ソドムの町に10人未満の善人がいたとしても、彼らのために町全体を滅ぼすことを思いとどまることはないという判断を示すものではあったのですが、
ソドムの町に取り残されていた10人未満の善人たち(実際にはロトと彼の家族の合計4人の善人たちだったと考えられる)についても、彼らを決して見殺しにしようとしていたわけではなく、
神は、この少数の善人たちのことを常に心に留め、彼らをソドムの町の滅亡の前に、前もって町の外へ逃れられるように滅びの運命から救い出すことによって、
悪人たちに正当な裁きを下すと同時に、残された善人たちをも救うという審判を下していたと考えられることになるのです。
悪人に対してだけでなく残された善人にとっても正当な善なる審判
ここで、もう一つの疑問として、
ではなぜ、神はアダムとの対話の中で、10人や50人といった比較的大人数の善人がソドムの町に残されている場合には、町全体を滅ぼさないことに同意していたのに、
町に残されている善人の数が10人未満の場合には、急に心変わりをしたかのように、彼らのために町全体を滅ぼすことは思いとどまらずに、
少数の善人たちを町の外へと連れ出し救出したうえでソドムを滅ぼすという審判を下すことにしたのか?ということですが、
それについては、以下のようなケースを例に挙げて考えると多少わかりやすくなるように思います。
例えば、現代社会においても、
凶悪犯の集団が施設などに人質をとって立てこもっているといった場合、
その人質の数が50人や100人などとあまりにも多い人数の場合には、その人質全員を犯人たちに気づかれないうちに救出することは極めて困難なので、
いったん犯人たちと交渉して様子を見るなどしたうえで、最終的には特殊班による遠方からの狙撃や警察のSATやSITなどの強襲部隊の戦略的な突入などで、ピンポイントで凶悪犯を排除していくことを試みることになります。
一方、それに対して、
凶悪犯が大人数で徒党組んだ大規模な集団であるのに対し、人質の数が2、3人、あるいはせいぜい10人以内と比較的少ない人数である場合は、
機会があれば犯人たちの隙をついて先にその少人数の人質を救出したうえで、その後で犯人だけが立てこもる施設を丸ごと襲撃して、凶悪犯の一味を一網打尽にする方が、効率が良い妥当な判断であると考えられることになります。
このように、
町があまりに多くの悪人であふれかえっていて、それに対して、町に残されている善人の数が非常に少人数である場合には、
町に残された善き人々になるべく災いの余波が降りかからないように、大勢の悪人一人一人にピンポイントに罰を与えていくよりも、
予め、罰を免れるべき善人たちを災いの降りかからない町の外へと救出したうえで、悪人だけが残された町そのものを滅ぼしてしまう方が合理的な判断であるとも考えられることになります。
・・・
現に、「創世記」の「ソドムの滅亡」における記述でも、
ソドムの町に残された唯一の善人の一家であるロトの家族たちは、ソドムの町の悪しき人々からの襲撃に遭い、身の危険にさらされてしまうことになるのですが、
このように、
少人数の善人のためにソドムを滅ぼすことを思いとどまり、悪人たちがはびこる町をそのまま野放しにしておくよりも、
その少人数の善人たちを町から救出したうえで、新たに彼らをより安全で善き人たちが多く住む土地へと導き、
その後で、悪人だけが残された町を滅ぼし尽くしてしまう方が、その少人数の善人たちのためにもなる審判であると考えられることになります。
そして、そういう意味においては、
ソドムに巣食う大多数の悪人たちを確実に根絶やしにするために、取り残された善人たちを救出したうえで、ソドムの町を焼き滅ぼした旧約聖書の「ソドムの滅亡」における神の裁きは、
町ごと滅ぼされた悪人たちに対してだけではなく、取り残されていた少数の善人たちにとっても正当な善なる審判であったと考えられることになるのです。
・・・
前回記事:アブラハムによるソドムの町のための執り成し①50人から10人への人数の絞り込みと神の能力と善性に対する問いかけ
関連記事:ソドム滅亡の具体的な顛末①パンを食べ地に足をつく天使と数百年を生きる超人たちが生きた時代
「旧約聖書」のカテゴリーへ
「倫理学」のカテゴリーへ