アブラハムによるソドムの町のための執り成し①50人から10人への人数の絞り込みと神の能力と善性に対する問いかけ
「創世記」の「アブラハムの執り成し」と題される章において、アブラハムは、
住民たちの目に余る悪意に満ちた行為の数々によって、今にも神の手によって滅ぼされようとしている悪徳の町ソドムのために、
その町にたとえほんの少人数でも神を愛する善き心を持った人々が残されているとするならば、そのわずかな数の善人のために、この町を滅ぼすのを思いとどまってくれるようにと神の慈悲をこう、ソドムの町のための執り成し(仲裁)を行うことになります。
そして、
旧約聖書の「創世記」におけるソドムの町のための執り成しを巡るアブラハムと神の対話は具体的には以下のような形で進んで行くことになります。
アブラハムによる神の能力と善性に対する問いかけ
主は言われた。
「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」…
アブラハムは進み出て言った。
「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界をさばくお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
(『旧約聖書』、「創世記」、18章20節~25節)
つまり、アブラハムは、聖書のこの箇所において、
正しい者たちに危害を加えたり、彼らを悪い者たちと同列に罰したりすることは、悪しき行為だと考えられることになるが、
もし、神が、町に住む大多数の人間が悪しき人々であるからといって、その多くの悪しき人々を滅ぼすために、その町に住むわずかに残された50人の善き人々をも巻き添えにしてこれを滅ぼしてしまうとするならば、
それは、善き人々に悪しき人々と同様に危害を加えるという悪しき審判を下すことになってしまうのではないか?と神に対して問いかけているということです。
このアブラハムの神に対する問いかけは、神の能力や善性についてある種の疑いを投げかけていると言える問いであり、
それは、一歩間違えれば神に対する不信や不敬の意思の現れともとられかねない発言であるとも考えられることになるのですが、
アブラハムの問いは、神への疑いの心からではなく、ソドムの町に残されているである少数の善良なる人々のことを心から思いやる隣人への慈しみの心から発せられているとみなされたことから、
彼の発言は許され、アブラハムと神との間でのさらに対話が続けられていくことになったと考えられることになります。
そして、
このアブラハムの問いにする答えは、神が全能にして限りなく善なる存在である以上、必然的に一つしかあり得ず、
神は、上記のアブラハムの問いかけに対して、当然のごとく以下のように答えることになります。
主は言われた。
「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」
(『旧約聖書』、「創世記」、18章26節)
つまり、
全能にして慈悲深い存在である神は、たとえ50人とは言えその町に善良な市民が残されているとするならば、
ソドムの町全体の悪徳というより大きな悪を裁くためであったとしても、そのために50人もの善良な人々を見捨てて、彼らごと町全体を焼き滅ぼすという悪しき審判を下すことは決してあり得ないということです。
アブラハムと神との対話における50人から10人への人数の絞り込み
そして、
ここから、町が滅亡から救われるために必要な善良な人々の数を巡って、アブラハムと神との間の対話が延々と続いていき、
その対話の中で、ソドムの町に審判を下すための基準となる善良な人間の人数の絞り込みが行われていくことになります。
アブラハムは答えた。
「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないがために、町のすべてを滅ぼされますか?」
主は言われた。
「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」
アブラハムは重ねて言った。
「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」
主は言われた。
「その四十人のためにわたしはそれをしない。」
アブラハムは言った。
「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」
主は言われた。
「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」
アブラハムは言った。
「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」
主は言われた。
「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」
アブラハムは言った。
「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」
主は言われた。
「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」
主はアブラハムが語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。
(『旧約聖書』、「創世記」、18章26節~33節)
このように、
アブラハムと神の対話の中で、ソドムの町が滅亡から救われるために必要な善良な人々の人数は50人から10人にまで絞り込まれることになります。
この対話においては、アブラハムの問いかけに次々に応じていく形で、神がより少ない人数の善良な人々のためにソドムの町に恩赦を与えることを約束していくことによって、神の限りなき善性とその慈悲深さが示されているとも考えられることになるのですが、
以上のような議論の流れに従うと、ここにおいて、一つの疑問が生じるとも考えられることになります。
それは、神が本当に全能にして限りなく善なる存在であるとするならば、その限りなく慈悲深い存在であるはず神は、
「ソドムの町を10人の善き人々のために滅ぼさない」と語るだけではまだ不十分であり、むしろ、「たった1人でも善良な人がいたならば、その者のためにソドムの町を滅ぼさない」とまで語るはずではないか?という疑問です。
そして、この疑問については、次回述べるように、
「アダムの執り成し」の前後における「創世記」の記述との整合性といった観点から合理的に説明することが可能であると考えられることになるのです。
・・・
次回記事:神が1人の善人のためにソドムを滅ぼすのをやめなかった理由とは?アブラハムによるソドムの町のための執り成し②
前回記事:塩の柱となったロトの妻と冥界へと連れ戻されるギリシア神話のエウリュディケー、ソドム滅亡の具体的な顛末③
「旧約聖書」のカテゴリーへ
「倫理学」のカテゴリーへ