「汎」の意味と語源とは?古代ギリシア語のpanと原初の宇宙の卵
汎神論(pantheism)や汎スラヴ主義(Pan-Slavism)、汎ゲルマン主義(Pan-Germanism)、汎ヨーロッパ主義(Pan-Europeanism)というように、
漢字の「汎」や英語の”pan–“という言葉は、
「すべて」や「あまねく」といった意味で用いられ、
上記の単語のような政治、歴史、哲学などの文脈においては、
民族や地域の広範囲における一体性の主張や、
物事の根源的な遍在と同一性を示す概念として用いられることになります。
今回は、
こうした「汎」や”pan-“といった言葉が持つより詳しい意味と
その語源について迫ってみたいと思います。
「汎」という漢字の意味と古代ギリシア語の pan(パーン)
汎(ハン)とは、もともとは、何か軽い物などが
水に浮かびながら風に吹かれて漂っている状態のことを指す漢字であり、
そこから、
例えば、湖のほとりに生える一本の桜の木から落ちた花びらたちが
風に吹かれて水面の上を広く散らばっていき、
やがては湖全体が花びらで埋め尽くされるというように、
風に吹かれるようにして、物事が広く隅々まで行き渡っていくという意味へもつながっていくことになります。
そして、「汎」という漢字は、
前者の水に浮かぶ、水の上を漂うといった意味では、
汎舟(ハンシュウ、船を水に浮かべること)、
汎濫(ハンラン、水があふれ流れること、※ただし、常用漢字による表記としては「氾濫」という表記が用いられる)、
汎汎(ハンパン、川や湖などの水が広くみなぎりながら流れていくさま)、
といった熟語において用いられ、
後者の広く行き渡るという意味では、
汎用(ハンヨウ、様々な方面に広く用いること)、
広汎(コウハン、広く行き渡っていくさま、※ただし、常用漢字による表記としては「広範」という表記が用いられる)、
汎愛(ハンアイ、広く公平に愛すること)
といった熟語に用いられることになります。
これに対して、
英語における”pan–“(パン)とは、
“all“(すべての)や”universal“(普遍的な)といった意味を表す接頭語であり、
もともとは、古代ギリシア語の”pas“(パース)という単語に
由来する言葉ということになります。
“pas”(パース)は、「すべて、あらゆる」といった意味を表す
(男性形の)形容詞なのですが、
その古代ギリシア語の”pas“(パース)の中性形である”pan“(パーンまたはパン)が
英語の”pan-“(パン)という言葉の直接の語源となっていると考えられることになるのです。
そして、
汎神論や汎スラヴ主義といった表記における
日本語の「汎」(ハン)という言葉は、
この場合は、英語における”pan-“(パン)の当て字として用いられているということになるのですが、
上述したように、
「汎」という漢字自体が持つ本来の意味においても、
「物事が広く隅々まで行き渡る」といった、英語の”pan-“(すべての、普遍的な)に非常に近い意味が含まれているので、
英語の”pan-“という言葉が含まれる単語を日本語に訳すにあたって、
発音がほぼ同じで、もともとの意味としても近い内容を持つ「汎」という漢字が、音訳に用いる当て字として選ばれることになったと考えられのです。
古代ギリシア神話と宇宙の原初の卵のイメージ
ところで、
古代ギリシア神話には、ローマ字表記では
「すべて、あらゆる」を意味する形容詞のパン(pan)と全く同じ表記となる
パン(Pan)という名前の神様も出てきますが、
ギリシア神話におけるパンは、
神と森の精霊(ニンフ)との間に生まれた半獣神であり、
牧人や家畜を守護する獣の脚と山羊の角をもった神であるとされています。
そして、
こうした形容詞のパン(pan)と神名としての固有名詞のパン(Pan)の同音異義性に基づく混同から、
古代ギリシアの民俗神話においては、
ギリシア神話における牧人と家畜の神であるパン(Pan)が
「すべて、あらゆる」を意味する形容詞のパン(pan)の語源となっているとする解釈が唱えられ、人々の間に広まっていくことになります。
こうした民俗神話においては、
パン(Pan)は、自分の身に危険が迫ると下半身を魚に変えて海の底へと潜ったり、
山羊の姿になって高い山々の頂上まで登ったりと、姿を自在に変えて世界のあらゆる場所へ行くことができたことから、パン=あらゆるを意味するようになったとか、
パン(Pan)が生まれたとき、山羊の脚を持ち、頭には二本の角を生やしているというその奇妙な姿がかえって神々に喜ばれ、彼の誕生は、すべての神々を喜ばすものだったので、パン=すべてを意味するようになったというように、
様々な逸話が語りつなげられていく形で、ギリシア神話のパン(Pan)が「すべて、あらゆる」という意味のパン(pan)へと結びつけられていくことになるのです。
また、古代ギリシア神話におけるパンは、のちに、
古代ギリシアにおける密教の一つであるオルペウス教において、
世界を生み出した原初の神であるとされるパネス(Phanes)とも同一視されることになるのですが、
オルペウス教における原初の神パネスは、
クロノス(時間)とアナンケー(運命)の交わりによって産み落とされた
宇宙の卵(cosmic egg)とも呼ばれる原初の卵から生まれ出ることになります。
この原初の宇宙の卵の中には、混沌の内に、のちに世界のすべてを形づくることになる
あらゆる存在の素が互いに混ざり合い、一体となった状態で含まれているのですが、
パネスが自らの力でこの原初の卵を割って外へと飛び出すと、それと同時に、
ウラノス(天空)とガイア(大地)を含む世界を形成するあらゆる存在がこの卵の内から飛び出していくことになり、
こうした原初の神であるパネスの誕生によって、世界におけるあらゆる存在の形成、すなわち、宇宙の創世が始まっていくことになります。
そして、
こうした古代ギリシア神話のパン(Pan)とも同一視される
オルペウス教の原初の神パネスにおける原初の宇宙の卵のイメージは、
まさに、”すべての存在が一つに融けあって一体化している”という
“汎“や”pan“といった言葉が持つイメージを具現化した存在でもあると捉えられることになるのです。
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