クレタ人のパラドックスがパラドックスとして成立しない理由とは?①、「すべて」と「一部」、「たいてい」と「常に必ず」に基づく命題の4パターンの解釈
あるクレタ人がこう言った。「クレタ人はいつも嘘をつく」と。
このクレタ人の発言は真実か?嘘か?どちらなのだろうか?
という議論に代表されるクレタ人のパラドックスは、
嘘つきのパラドックスなどと呼ばれる一連の自己言及的なパラドックスの代表例として取り上げられることも多い議論でもあるのですが、
上記のクレタ人のパラドックスとされる議論は、論理学上、厳密な意味においては、
パラドックスとして成立していない議論であると捉えられることになります。
そこで、今回は、
クレタ人のパラドックスとされる議論が
パラドックスとして成立しないことを証明するために、その前提として、
上記の「クレタ人はいつも嘘をつく」という命題は、
論理学的には、正確にはどのような主張を表す命題として解釈できるのか?ということについて考えていきたいと思います。
「すべてのクレタ人」か?それとも「あるクレタ人」か?
前回書いたように、
クレタ人のパラドックスとは、
全称命題(「すべての~」、「あらゆる~」のように集合全体が主語となる命題)か
特称命題(「ある~」や「一部の~」のように集合の一部が主語となる命題)のいずれかによって構成される論理学上の議論であると考えられることになります。
そして、
このクレタ人のパラドックスとされる論理学上の議論が
全称命題として解釈されるのか?それとも特称命題として解釈されるのか?という命題の種類の区別に基づく解釈の違いによって、
「クレタ人はいつも嘘をつく」という命題の解釈は、
以下に述べるような二つの解釈に分かれると考えられることになります。
まず、
上記の命題を全称命題として解釈するとすると、
この命題の主語である「クレタ人」は、
クレタ人という特定の民族の集合全体を表す概念となるので、
「クレタ人」=「すべてのクレタ人」、「あらゆるクレタ人」
として解釈されることになります。
これに対して、
上記の命題を特称命題として解釈した場合、
この命題の主語である「クレタ人」は、
クレタ人という特定の民族の集合の一部を表す概念となるので、
「クレタ人」=「あるクレタ人」、「一部のクレタ人」
として解釈されることになります。
つまり、
「クレタ人はいつも嘘をつく」という命題は、
それが全称命題として解釈されるのか、それとも特称命題として解釈されるのかという違いに応じて、
「すべてのクレタ人はいつも嘘をつく」または、
「一部のクレタ人はいつも嘘をつく」という二つの異なる主張を表す命題として解釈することができると考えられることになるのです。
普段はたいてい嘘をつくのか?それとも、常に必ず嘘をつくのか?
また、
上記の議論と同様に、
「クレタ人はいつも嘘をつく」という命題の後半部分である
「いつも嘘をつく」という部分についても、解釈の仕方が二つに分かれていくことになります。
「いつも」という言葉の意味について考えるとき、
例えば、
「朝はいつもご飯を食べるが、今日はパンにする」といった場合は、
「いつも」という言葉は、「普段は」とか「たいてい」といった言葉と同様の意味で用いられていることになりますが、
それに対して、
「太陽はいつも東から昇る」といった場合では、
「いつも」という言葉は、「常に必ず」といったより断定的な強い意味で用いられていると考えられることになります。
このように、
「クレタ人はいつも嘘をつく」という命題の後半部分である
「いつも嘘をつく」という部分の「いつも」という言葉についても、
それを「普段は」や「たいてい」といった意味で解釈するのか?
それとも「常に必ず」といったより強い主張として解釈するのか?という違いに応じて、命題全体の解釈のあり方が二つに分かれると考えられることになるのです。
つまり、
「クレタ人はいつも嘘をつく」という命題の後段部分は、
「いつも」という言葉の解釈の違いに応じて、
「普段はたいてい嘘をつく」のか?それとも
「常に必ず嘘をつく」のか?という二つの異なる主張として解釈することができるということです。
・・・
以上のように、
「クレタ人はいつも嘘をつく」という命題は、
命題の前半部分である「クレタ人」については、それは、
「すべてのクレタ人」を意味するのか?それとも「一部のクレタ人」を意味するのか?という違いによって二つの異なる主張として解釈されることになりますが、
さらに、
命題の後半部分である「いつも嘘をつく」についても、それを
「たいてい嘘をつく」と解釈するのか?それとも「常に必ず嘘をつく」と解釈するのか?ということで、解釈が二つに分かれることになります。
そして、
以上の考察に基づくと、
「クレタ人はいつも嘘をつく」という命題は、
命題の前半部分を「すべてのクレタ人」ととるのか?それとも「一部のクレタ人」ととるのか?で2パターン、
命題の後半部分を「たいてい嘘をつく」ととるのか?それとも「常に必ず嘘をつく」ととるのか?で2パターンの解釈がそれぞれ生じることになるので、
2×2で合計4パターンの可能な解釈が生じると考えられることになり、
それは、具体的に書くと、以下の4パターンの主張として解釈されることになります。
①「一部のクレタ人はたいてい嘘をつく」(特称命題+「たいてい」)
②「一部のクレタ人は常に必ず嘘をつく」(特称命題+「常に必ず」)
③「すべてのクレタ人はたいてい嘘をつく」(全称命題+「たいてい」)
④「すべてのクレタ人は常に必ず嘘をつく」(全称命題+「常に必ず」)
そして、詳しくは次回述べるように、
上記の4パターンのいずれの解釈においても、
クレタ人のパラドックスと呼ばれる論理学上の議論において、
パラドックスは成立しないということが証明できることになるのです。
・・・
このシリーズの前回記事:クレタ人のパラドックスと嘘つきのパラドックスの違いとは?単称命題と全称命題と特称命題の区分
このシリーズの次回記事:特称命題と蓋然性が関わる3つの命題解釈における無矛盾性の証明、クレタ人のパラドックスがパラドックスとして成立しない理由とは?②
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