クレタ人のパラドックスと嘘つきのパラドックスの違いとは?単称命題と全称命題と特称命題の区分
「私は今、嘘をついている」といった命題によって表現される
嘘つきのパラドックスと
「クレタ人はいつも嘘をつく」といった命題によって表現される
クレタ人のパラドックスと呼ばれる議論は、
一見すると、どちらも似たような議論が展開されている同種のパラドックスの議論であるようにも見えるのですが、
両者の命題は、論理学的には、その根本的な性質から大きく異なる議論であると考えられることになります。
そこで、今回は、
こうした嘘つきのパラドックスとクレタ人のパラドックスの違いについて、
命題の性質の違いという観点から読み解いていきたいと思います。
論理学における単称命題と全称命題と特称命題の区分
命題(proposition)とは、論理学において、真である、偽であるなどと言いうる言語的に表明された判断のことを指す概念であり、
よりわかりやすく言うと、
命題とは、真偽の判定対象となる文や文章のことを指す概念ということになります。
そして、以下に示すように、
論理学における命題は、その量的な性質において、
単称命題と全称命題と特称命題という三つの区分に分けて捉えることができます。
はじめに、
単称命題(singular proposition)とは、
論理学において、単数の個体である主語のみに論及する判断のことを指す概念であり、
「ソクラテス」や「坂本龍馬」、「丹下段平」、
「私」、「この人」といった特定の人物や
「オリンポス山」や「東京タワー」、「ホグワーツ城」
「これ」、「この本」といった特定の個物のみが主語となる命題のことを指す概念ということになります。
これに対して、
次に述べることになる全称命題と特称命題においては、
主語が「すべての~」や「ある~」というように、
量的な広がりを持つ存在として捉えられていて、
主語概念が示す外延(その概念が適用される事物の集合)に対して判断が言及する範囲に応じて、両者の命題概念が区別されることになります。
具体的に言うと、
全称命題(universal proposition)とは、
論理学において、主語の外延全体に論及する判断のことを指す概念であり、
「すべての馬」「あらゆる文字」「全ローマ人」
といった特定の属性を持った事物の集合全体が主語となる命題のことを指す概念ということになります。
そして、
特称命題(particular proposition)とは、
論理学において、主語の外延の一部に論及する判断のことを指す概念であり、
「ある馬」「一部の文字」「あるローマ人」
といった特定の属性を持った事物の集合の一部が主語となる命題のことを指す概念ということになります。
以上のように、
命題は、それぞれの命題における主語概念の量的な性質の違いに応じて、
単称命題と全称命題と特称命題という三つの区分に分けて捉えることができると考えられることになるのですが、
そうすると、
嘘つきのパラドックスとクレタ人のパラドックスと呼ばれる二つの論理学上の議論において提示されるそれぞれの命題は、上記の三つの命題区分の内のどれに該当すると考えられることになるのでしょうか?
単称命題である嘘つきのパラドックスと
全称命題または特称命題であるクレタ人のパラドックス
嘘つきのパラドックスは、
「私は今、嘘をついている」や
「この文は偽である」といった命題によって表されることになりますが、
上記の命題における主語である「私」と「この文」は、共に特定の単数の個体のことを指す単独概念なので、これらの命題は単称命題であると捉えられることになります。
つまり、
嘘つきのパラドックスは、
単称命題によって構成されているパラドックスの議論であると考えられるということです。
これに対して、
クレタ人のパラドックスと呼ばれる議論の方は、
「クレタ人はいつも嘘をつく」といった命題によって表されることになりますが、
この命題の主語である「クレタ人」は、
ある特定の民族集団のことを指す概念であると考えられるので、
それは、一定の量的な広がりを持った概念として捉えられることになります。
そして、この量的な広がりを持った概念である「クレタ人」が
その概念が指し示す外延の全体である「すべてのクレタ人」として解釈されるのか、それとも、外延の一部である「あるクレタ人」として解釈されるのかによって、
上記の命題が全称命題とされるのか、それとも特称命題とされるのかという
命題としての区分が異なってくると考えられるのですが、
いずれにせよ、
クレタ人のパラドックスは、単称命題ではないことは確かであり、
それは、全称命題か特称命題のいずれかによって構成される論理学上の議論と考えられることになるのです。
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以上のように、
嘘つきのパラドックスとクレタ人のパラドックスの根本的な違いは、
前者が単称命題によって構成されるパラドックスであるのに対して、
後者が全称命題または特称命題によって構成される論理学上の議論であるということに求められることになります。
そして、
こうした命題としての根本的な性質の違いに基づいて、
両者の議論がパラドックスを構成する議論として成立しているか否かを決定づける文構造とその検証のあり方が大きく異なっていくことになると考えられるのです。
・・・
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このシリーズの次回記事:クレタ人のパラドックスがパラドックスとして成立しない理由とは?①、「すべて」と「一部」、「たいてい」と「常に必ず」に基づく命題の4パターンの解釈
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