ゴルギアスの『ヘレネ頌』における美女ヘレネのための三つの弁明②運命・暴力・愛による三段階の論証の流れ
今回は、前回に引き続き、ゴルギアスの『ヘレネ頌』における
ヘレネのための三つの弁明における論証の具体的なあり方について詳しく考えていきたいと思います。
ヘレネに対して、自身の家庭の崩壊を招いたことやトロイア戦争という災厄がもたらされたことに対する罪と咎を帰着させることができるのか?ということについての適切な裁定を下すための議論は、
結局、ヘレネがパリスに連れられてトロイアへと行ってしまったことについて、
ヘレネ自身の責任があるのか否か?という問題へと行き着くことになると考えられます。
そして、
世界一の絶世の美女と謳われたスパルタの王妃ヘレネがトロイアの王子パリスのもとへと駆け落ちするようにはしってしまった原因について考えていくと、
それは、はじめに、三美神の審判において、
パリスが女神アフロディテからこの世で一番の美女であるヘレネを得ることを約束されたところまでさかのぼることができると考えられることになります。
ヘレネのための三つの弁明の論理
そして、
この女神アフロディテの王子パリスへの約束が
神によってもたらされた二人の運命の決定であると解釈できるとすると、
神が定めた運命に、人間であるヘレネが自らの意志だけで抗うことは不可能ということになるので、ヘレネにはパリスとの駆け落ちに対するいかなる咎も責任もないということになります。
作品のあらすじに対する責任が
物語の登場人物自身ではなく、作者にあるように、
定められた運命に従う人間の行動の責任は、
その人間自身ではなく、その運命を定めた神にあることになるので、
この場合、ヘレネの駆け落ちの責任は、ヘレネ自身ではなく、
その運命を定めた女神アフロディテにあるということになるのです。
それでは、次に、
女神アフロディテの約束は、それ自体としては運命の定めではなく、
パリスにヘレネをトロイアへと連れ帰る許可を与えただけであって、
アフロディテは、パリスがヘレネを連れ立ってトロイアへと帰ることができるように、彼がヘレネと二人だけで会うことや、ギリシア軍の追っ手から二人を守るといった
周りの状況を調えるお膳立てをしたに過ぎないと主張して、
ヘレネの罪と責任へのさらなる追求がなされていくとします。
しかし、この場合においても、
パリスは、女神アフロディテの後ろ盾を根拠として、
強引に、それこそ力づくででもヘレネを自分のもとへと連れて帰ろうとしたと考えられることになるので、
やはり、ヘレネには何の責任もないと考えられることになります。
パリスが彼女を力づくで連れ去ったということは、
それは、暴力によって女性を誘拐したに等しいということになりますが、
暴力は、それを振るわれる被害者ではなく
それを振るう加害者にその責任があることになるので、
この場合でも、ヘレネには罪も落ち度も一切ないということになるのです。
そして、最後の追求として、
パリスがヘレネを連れ去ったのが力づくだったという
確たる証拠があるわけではないので、
ヘレネがパリスのもとにはしったのは、女神による運命の定めでも、パリスによる暴力のためでもなく、彼女自身が望んでそうしたのかもしれないということは、結局、否定しきれないのではないか?という反論が考えられることになります。
そして、
こうした徹底的な反論に応えるための最後の弁明が求められることになるのですが、
それは以下のような議論となります。
運命の定めでも、暴力による強制でもなく、
ヘレネ自身が自らの意志でパリスのもとへとはしったということは、
この場合、彼女がスパルタ王の妻という地位にも名声にも富にも恵まれた立場にあり、
その家庭生活も円満なものであったことを考えると、
それは、ひとえに愛の力がもたらす恋の病によってパリスに魅了され、
すべてを捨てて彼に付き従うように仕向けられたと考えられることになります。
しかし、
恋の病というのは、一種の病気のようなものであり、
熱病にうかされている病人が
自分の意志の力によっては熱を下げることができないように、
恋の病を患っている人は、その病がもたらす症状である愛を求める衝動を自らの意志だけで抑えることは不可能であると考えられることになります。
病気であることの責任が
病人自身にあるわけではないのと同様に、
恋の病についても、
自分の意志によってその病にかかるわけではないので、
その病の症状によってもたらされた行為は不可抗力ということになり、
この場合においても、やはり、ヘレネにはパリスとの駆け落ちに対するいかなる罪も咎もないと考えられることになるのです。
・・・
以上のように、
ヘレネがパリスの元へと駆け落ちするようにはしったのは、
神々の定めた運命によるためか、
パリスが振るった暴力によるためか、
人の心を惑わす愛の力と恋の病によるため、
という三つのいずれかの原因によると考えられることになります。
そして、
ゴルギアスの『ヘレネ頌』に基づいた上記の三つの論証に従うと、
ヘレネのパリスとの駆け落ちの責任は、女神アフロディテにあるか、トロイアの王子パリスにあるか、さもなくば、愛の力がもたらす不可抗力によって生じた出来事ということになるので、
そのどの場合においても、ヘレネ自身には何の罪も落ち度も責任もなく、
世間一般の理解において、彼女へと帰されている不義不貞の女や国家を破滅へと導く悪女といった悪評は、そのすべてが事実無根であることが論証されることになるのです。
ちなみに、
上記の論証のうち、特に、三番目の愛の力と恋の病の議論については、
その論理をそのまますべて真に受けてしまうと、
ヘレネの弁明どころか、古今東西、世界中のすべての男女における不倫関係が何の罪も咎もないものとして肯定されてしまうので、少々詭弁性の高い、問題のある議論ということにもなるのですが、
いずれにしても、ヘレネの場合は、上記の三つの論証の合わせ技によって弁明がなされることになるので、そのうちの一つの議論がある聞き手にとって説得力が不十分だとしても、残りの二つの議論の説得力が十分にあれば、その聞き手に対する彼女の弁明自体は十分になされていると考えることもできることになります。
上記の三つの論証は、一つ一つが独立した別々の議論であるわけではなく、
互いに補完し合うことによって、弁明全体の説得力を幾重にも高めていく関係にあるということです。
また、そもそも、
ヘレネの場合は、一番目の議論において、
愛の女神であるアフロディテによって、パリスと恋に落ちるよう約束されたということが示されているので、
ヘレネが自らの意志で抗うよう求められる愛の力は、一般の男女におけるただの愛や恋ではなく、愛の力を司る女神アフロディテ自身の強い後押しを受けた特別な愛の力ということになります。
そして、
そのような神の力の後押しを受けた特別な愛の力に対して、
一人の女性の意志で逆らうことはそもそも不可能と考えられることになるので、
やはり、ヘレネの弁明に限っては、三番目の愛の力と恋の病の議論についても
十分説得力のある論証として成立していると考えられることになるのです。
・・・
そして、このように、
複数の論証を重ね合わせていくことによって説得力を高めた議論を展開し、
人々の一般的な理解を根底から覆していくという論理と弁論術の用い方は、
同じくゴルギアスの著作である『あらぬものについて』(非存在論)における
存在と真理を否定していく三段階の論証においても踏襲されていくことになり、
同様の論証の形式において議論が展開されていくことになるのです。
・・・
このシリーズの前回記事:ゴルギアスの『ヘレネ頌』における美女ヘレネのための三つの弁明①古代ギリシア社会におけるヘレネの悪評の由来
このシリーズの次回記事:「何も存在しない。知ることも、伝えることもできはしない。」ゴルギアスの箴言①、パルメニデス哲学の存在論と真理観の否定
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