ローレンツ収縮とエーテル理論との関係とフィッツジェラルドによる同一仮説の先駆的提唱、ローレンツ因子の由来とは?③

前回書いたように、1887に行われたマイケルソン・モーリーの実験では、19世紀の物理学において光を媒介する物質として想定されていたエーテルの干渉によって生じるはずの光の速さの変化を測定しようとする試みがなされたのですが、

この実験においては、その精度が十分であったにも関らず、エーテルの干渉による光の速さの変化が検出されることはなく、実験の本来の目的には反して、光の速さはどのような観測地点においても常に一定であるという光速度の不変性が実証されてしまうことになります。

そこで、その後の物理学界においては、光速度の不変性を前提としたうえで、上記のマイケルソン・モーリーの実験結果を整合的に説明するための理論が求められることになるのですが、

そうした中、1895オランダの物理学者であるヘンドリック・ローレンツHendrik Antoon Lorentz1853年~1928)の手によって、

上記のマイケルソン・モーリーの実験における実験結果を説明するために、ローレンツ収縮あるいはローレンツ短縮と呼ばれる一つの仮説モデルが提示されることになります。

そして、ローレンツ収縮という仮説が当時の物理学界に衝撃をもって受け止められ、広く浸透していくことによって、

1905年のアインシュタインによる特殊相対性理論の提唱を含むその後の物理学の急速な発展に大きな影響を及ぼしていくことになるのです。

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エーテルと絶対空間の存在を前提とするローレンツ収縮の仮説

19世紀の物理学において光の波動説における光の伝達のあり方を説明する最も有力な理論とされていたエーテル理論においては、

17世紀以降の近代自然科学の理論的基盤となっていたニュートン力学における絶対空間・絶対時間の概念が前提とされたうえで、

あらゆる物体と観測者に対して常に一定の構造を保つ静止空間のことを意味する絶対空間の内に媒質としてのエーテルが満たされていることによって光の伝達がなされていると考えることになります。

そして、絶対空間の内部を運動する物体は、同じく絶対空間の内部に存在する静止系であるエーテルからの干渉を常に受けることになり、

そうした運動する物体において観測されるエーテルの相対的な運動としての干渉のあり方がエーテルの風と呼ばれる概念として捉えられることになります。

そして、

ローレンツは、こうしたエーテル理論の考え方と、その前提にある絶対空間の概念を前提としたうえで、

どのような観測地点においても光の速さが常に一定であるためには、光が伝達されていく際に、そうしたエーテルの風の影響を受けた分だけ物体の長さが運動方向に対して短縮されることによってエーテルの干渉が相殺されることが必要であるという考え方を提唱することになり、

こうした考え方がローレンツ収縮Lorentz contractionローレンツ・コントラクトション)と呼ばれる一つの仮説理論として提示されることになります。

つまり、

ローレンツが提示したローレンツ収縮と呼ばれる仮説理論においては、絶対空間の存在を前提としたうえで、そうした絶対空間の内部を満たす未知の媒質であるエーテルを通じて波動としての光が伝達されているとするエーテル理論と、

その前提にある絶対空間・絶対時間という古典物理学における根本的な枠組み自体は踏襲されたまま、

マイケルソン・モーリーの実験によって得られた光速度の不変性という新たな科学的知見を説明しようとする試みがなされていると考えられることになるのです。

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フィッツジェラルドによる同一仮説の先駆的提唱の経緯

ところで、こうしたローレンツ収縮と呼ばれる仮説において提唱された「静止エーテルのなかを運動している物体の長さはその運動方向に対して短縮される」という考え方自体は、オランダの物理学者ローレンツによってはじめて考え出されたアイディアというわけではなく、

その着想自体は、それ以前に、アイルランドの物理学者であるジョージ・フィッツジェラルドGeorge Francis FitzGerald1851年~1901)によってすでに提唱されていた着想でもあったと考えられることになります。

ローレンツの手によってローレンツ収縮の仮説モデルが提示された6年も前の年にあたる1889 、フィッツジェラルドは、上記のローレンツ収縮において示されたものとほぼ同様の考えを思いつき、実際にその着想を自身の論文の中で発表してもいるのですが、

こうしたフィッツジェラルドの構想は、ほとんど注目を集めることなく、当時の物理学界からは黙殺されてしまうことになります。

そして、やっと1895になってオランダの物理学者ローレンツの手によって同様の理論がより洗練された形で改めて提示されたことによって、フィッツジェラルドがそれに先駆けて提唱していた同様の考え方も改めて見直されていくことになり、

その後、上記のローレンツ収縮という仮説は、フィッツジェラルドの名を加えてフィッツジェラルド・ローレンツ収縮という名称でも呼ばれるようになっていきます。

しかし、

ローレンツがその後、アインシュタインの特殊相対性理論の発表とも呼応していく形で、上記のローレンツ収縮の仮説モデルを、ローレンツ変換と呼ばれるより普遍的な座標の変換の形式へと発展させていくなど、

その後の物理学の急速な発展の波にうまく乗っていく形で自らの業績を積み上げていったのとは対照的に、

フィッツジェラルドは、1905年のアインシュタインによる特殊相対性理論の発表を待つことなく、その4年前の1901年に生まれ故郷のアイルランドのダブリンで静かにその生涯を閉じてしまうことになるのです。

・・・

以上のように、

ローレンツフィッツジェラルドという二人の物理学者が同時代に考え出したとされるフィッツジェラルド・ローレンツ収縮、あるいは単にローレンツ収縮と呼ばれる仮説においては、

光を伝達する媒質として仮想されていたエーテルの存在と、ニュートン力学における絶対空間・絶対時間の枠組みを前提としたうえで、

「静止エーテルのなかを運動している物体の長さはその運動方向に対して短縮される」という新たな着想が提示されることによって、

マイケルソン・モーリーの実験によって実証された光速度の不変性という事実についての整合的な説明が図られていくことになります。

そして、ローレンツ収縮においては、運動する物体に対して生じると推定されるエーテルの風の速度と、そうしたエーテルの風の速度の光速度に対する割合が計算されることによって、

運動する物体の速度をv光の速さを cとした場合、最終的に、

数式5

の割合で物体の長さが短縮されるとすれば、エーテルの風の影響が相殺されることによって光速度の不変性が保たれるという説明がつくと結論づけられることになります。

そして、

こうしたローレンツ収縮の内に登場する上記の係数が、その後のローレンツ変換の形式や特殊相対性理論においてより使いやす形になるように

数式3

という逆数の形に変形されたうえで、以降はそれがローレンツ因子と呼ばれる係数の値として取り扱われるようになっていきます。

つまり、

こうしたローレンツ収縮と呼ばれる仮説モデルの内に登場する物体の運動速度に対する物体の長さの短縮の割合ことを示す上記の係数がローレンツ因子の直接的な由来となったと考えられることになるのです。

そして、こうしたローレンツ因子と呼ばれる係数は、その後のアインシュタインの特殊相対性理論の内においては、

絶対空間の内部における物体の変形ではなく、空間自体の収縮や時間の遅れのことを表す因子として捉え直されることになっていくのですが、

それでは、なぜ、こうしたローレンツ収縮や、その後のアインシュタインの特殊相対性理論において、

時間の遅れ空間の収縮は上記のローレンツ因子の値に比例する形で生じていると考えられるのか?

そして、こうしたローレンツ因子と呼ばれる比例係数は、具体的にどのような計算式によって導き出すことができるのか?ということについては、また次回以降改めて考えていきたいと思います。

・・・

次回記事:相対性理論において時間の遅れが生じる具体的な仕組みとは?野球のボールと光の進み方の違い

前回記事:マイケルソン・モーリーの実験における光速度変化の測定の仕組みとエーテルの実証の失敗、ローレンツ因子の由来とは?②

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