「海の民」の正体とエトルリア人との関係、エトルリア人の起源とは?③

海の民」(Sea Peoples)とは、

紀元前1200年前後に突如現れ、
東地中海沿岸の古代世界を席巻した
系統未詳の海洋民族集団総称ですが、

彼らは、

この地域に築かれていた
古代ギリシア最古の文明であるエーゲ文明の内の
後期の文明にあたるミケーネ文明

小アジアのヒッタイト帝国、そして、
新王国時代の古代エジプト王朝といった

東地中海の名だたる古代文明の諸都市を相次いで襲撃し、
略奪と破壊活動を繰り返していくことになります。

そして、

「海の民」は、これらの古代文明の諸都市を
数十年間にわたって断続的に襲撃していくことによって、

このうちの二つの文明を完全に滅ぼし
一つの文明にその後の発展の道を閉ざすだけの大打撃を与えたのちに

再び海の彼方へと去って行き、
歴史上から忽然とその姿を消してしまうことになります。

今回は、

こうした「海の民とエトルリア人との関係について考えていき、

そのことを通じて、「海の民の正体についても
少し迫ってみたいと思います。

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海の民の初期の活動地域と古代ギリシア世界の滅亡

「海の民」に関する最古の記録が残るのは、

紀元前1208年頃エジプトにおける
戦争の記録ということになりますが、

「海の民」による文明の破壊活動は、
それにさかのぼること数十年ほど前から始まっていたと
推定されます。

はじめは散発的だった「海の民」の活動は、

次第に、エーゲ海(現在のギリシャとトルコの間の海)
をはさむ東地中海沿岸一帯へと拡大していき、

ミケーネティリンスといった
ギリシャ本土の南端部、ペロポネソス半島のギリシア人諸都市や、

暗黒時代以前の古代都市としての
ミレトストロイアといった
小アジア(現在のトルコ)側のギリシア人諸都市も

海の民」による
攻撃と圧迫を受けるようになっていったと考えられます。

そして、

これらのミケーネ文明、あるいは、
さらに大枠のくくりとしてのエーゲ文明を構成する
古代ギリシア人諸都市は、

海の民」や北方のドーリア人Dories、紀元前12世紀頃、バルカン半島北西部からペロポネソス半島へと侵入し、のちに、スパルタなどの都市を築き、古代ギリシア人の一派を形成するようになる民族)による侵攻を繰り返し受けながら
急速に衰亡していき、

紀元前1150年頃には破壊された都市自体が
捨て去られてしまい、

ミケーネ文明、そしてエーゲ文明は、
完全なる滅亡を迎えることになるのです。

海の民の出没地域とエトルリア人の発祥地との関連性

これに対して、

前々回述べたように、
エトルリア人の起源に関する最も有力な仮説に基づくと

エトルリア人は、イタリア半島へと定着するようになる
紀元前10世紀以前には、

小アジア北西部の東地中海沿岸
リュディア地方に居住していた民族と考えられることになりますが、

これは、年代においても、地理的条件においても、
海の民」の活動時期や活動地域とほぼ一致することになります。

つまり、

海洋民族であるエトルリア人は、
イタリア半島において自らの文明を築き上げる以前の段階において、

その発祥地である小アジアのエーゲ海沿岸の地域で
「海の民」による連鎖的で断続的な文明世界への侵攻活動に加わり、

海の民」としての古代地中海世界の放浪と戦乱の旅の末に、
安住の地イタリア半島へとたどり着いた

とも考えることができるということです。

その場合、

エトルリア人の祖先自体が
海の民の中核を担う存在であり、

その活動に、地中海沿岸のギリシア人諸都市への
初期の侵攻の頃から参加していたと考えることもできますし、

あるいは、

エトルリア人は、むしろ、
そうした初期の「海の民」による侵攻の被害者であり、

その後の侵攻規模の拡大の中で、
次第に自らも「海の民」の活動へと加わるようになっていった
と考えることもできるでしょう。

先述した古代都市トロイアの歴史上の滅亡の一因が
「海の民」による侵攻と襲撃にあったと考えられるように、

エトルリア人の祖先が居住していた町も
「海の民」の襲撃にあって破壊されてしまい、

滅びた町から逃げのび、
流民として生きていくことを余儀なくされた人々が

自らも地中海世界を放浪する
海の民の一員となって

残された文明世界を飲み込み破壊する
大きなうねりの一部となっていったとも考えられるということです。

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古代イタリア世界の古代部族とエトルリア人の関係

一方、

エトルリア人の起源について二番目に有力な仮説である
イタリア半島原住地説をとった場合でも、

原住地であるティレニア海から
シチリア島を経由することによって、

エトルリア人も
東地中海における「海の民」の破壊活動に加わっていた
と考えることは可能と言えます。

実際、「海の民を構成していたと推定されている
主要な十部族ほどの候補の中には、当時、

シチリア島を本拠地としていた
シェケレシュ人Shekelesh)や

サルディーニャ島に住んでいたと考えられる
シェルデン人Sherden)の名前も挙げられているので、

エトルリア人が
イタリア半島を原住地としていた場合でも、

これらのシェケレシュ人シェルデン人といった
古代イタリア世界に居住していた古代民族を引き連れて
海の民」として東地中海での大規模な略奪活動に加わり、

古代地中海世界の文明秩序を転覆させる
大変革の一翼を担う存在として活躍したと考えることは
十分可能なのです。

・・・

以上のように、

エトルリア人は、

小アジアのエーゲ海沿岸という民族としての有力な発祥地
「海の民」の活動地域および活動時期との関連性や、

同じ古代イタリア世界に属する古代民族である
シェケレシュ人やシェルデン人との関係からも

海の民」と深い関わりがあり、
おそらくその活動の一翼を担う存在であったと考えられます。

そして、

エトルリア人が
本当に、「海の民」のような勢力に加担し、
古代世界の文明秩序を崩壊へと導く
破壊的な形でも関わっていたのか、

それとも、

海上貿易などを通じて、これらの古代文明と
平和的に関わっていただけだったのかはともかくとして、

エトルリア人が
こうした古代地中海世界の文明との深い関わりの中で
自らの文明を発展させていったことは確かだと考えられます。

そして、

古代ギリシアエジプト文明が残した知識と技術は
エトルリア人によって古代イタリア世界へと持ち込まれ、

古代ローマ人は、エトルリア人を介して
こうした古代地中海文明の進んだ知識と技術を自らの内へと吸収することによって、
古代世界に新しい覇権を打ち立てる礎を築いていくことになるのです。

・・・

このシリーズの前回記事:
エトルリア人の起源とは?②古代ギリシアおよびエジプト文明との関連性

このシリーズの次回記事:ローマとエトルリアの地理的関係と政治的支配、ローマ人とエトルリア人の関係とは?①

※関連シリーズの記事:「海の民」の地中海侵攻ルートと三つの古代文明の滅亡と衰退、海の民の地中海世界への侵攻①

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