ローマ人とラテン人の起源とは?イタリック人のヨーロッパ大陸への移動
ローマ人とラテン人という民族の区分と、
それぞれの概念の関係性について正確に把握するためには、
まずは、その前提として、
そもそもローマ人やラテン人と呼ばれる人々が、
どのような由来を持つ民族であり、
彼らは、
どのような経緯でイタリア半島に居住するようになったのか?
ということについて考えておくことが必要となります。
ローマ人とラテン人の祖先とは?
ローマ人、そして、ラテン人の祖先をたどっていくと
それは、最終的には、
インド・ヨーロッパ語族に属する
イタリック人にまでさかのぼることができます。
インド・ヨーロッパ語族とは、
古くは、紀元前6000年頃に、
黒海・カスピ海周辺の草原地帯(中央アジア西部から現在のウクライナのあたり)で
農耕や牧畜、遊牧生活などを営んでいた人々を祖先とする語族(言語系統)であり、
インド・ヨーロッパ語族に属する人々は、
紀元前2000年頃から大規模な移動を開始し、
ヨーロッパから、トルコ、イラン、インドへとわたる広大な地域において
現在まで続くそれぞれの民族の祖先となっていきます。
彼らの内の一部は、アーリア人としてインドに侵入し、
原住民であったドラヴィダ人を征服して
カースト制(ヴァルナ・ジャーティ制)に基づく身分制度社会を形成し、
別の一派は、小アジアやイラン高原へと南下して
ヒッタイト帝国やペルシア帝国を築いていくことになりますが、
そのインド・ヨーロッパ語族の内で、
西へ西へと進んでいった部族の一派が、
イタリア半島へとたどり着くことになるのです。
イタリック人のイタリア半島への侵入と二つの山脈の壁
ヨーロッパ大陸を西進していった
インド・ヨーロッパ語族の一派は、
現在のフランス・スイス・オーストリアと
イタリアとの国境地帯にそびえ立つ
最大標高4800メートルをほこる
ヨーロッパ大陸最高峰の山脈である
アルプス山脈((英)Alps、イタリア語ではAlpi(アルピ))
を越えてイタリア半島へと入ります。
しかし、
そこで今度は、イタリア半島を縦に縦断する
全長1200kmにわたる長大な山脈である
アペニン山脈((英)Apennine、イタリア語ではAppennini(アッペンニーニ))
に行く手をさらに阻まれることになるのです。
彼らは、アペニン山脈に沿って
イタリア半島を南進していくなかで、
山脈の東側と西側や
北部・中央部・南部などといった地域ごとに
集団を分断されていくことになり、
山脈などの地形によって隔絶された諸地域ごとで
個別の民族集団を形成していく形でこの地に定住していくことになります。
そして、
このようにしてイタリア半島周辺へとたどり着き、この地に定住した
インド・ヨーロッパ語族系諸部族のことを総称して
イタリック人(Italics、または、Italic peoples※)
と呼ばれることになります。
※英語の”people”は、特定の「国民」や「民族」を指す場合は可算名詞となるので、複数の部族を合わせた総称としての民族名である「イタリック人」には、可算名詞としての”people”の複数形”peoples”が使われ、”Italic people”ではなく、 “Italic peoples“となります。
また、同様の理由で、複数の部族の総称である「ゲルマン人」や「ケルト人」なども、英語ではそれぞれ”Germanic peoples“や”Celtic peoples“と表記されることになります。
アルプス山脈とアペニン山脈という
二つの巨大な山脈に行く手を阻まれながらも、
徐々にその勢力を南へと拡大させていった
イタリック人は、
紀元前1000年頃までには、
半島南部のギリシア人植民地を除く、
イタリア半島全域へと広がっていくことになり、
彼らイタリック人が、
ラテン人やローマ人、そして、
現代のイタリア人にも共通する民族の祖先となり、
その後のイタリア系民族の発展の礎を築いていくことになるのです。
・・・
以上のように、
ラテン人とローマ人の起源は、
インド・ヨーロッパ語族系民族である
イタリック人のイタリア半島への移動と定住化に求めることができます。
そして、
イタリック人の中から一部がラテン人へと分化し、
さらに、そのラテン人の中からローマ人が分化していくことになるのですが、
後の時代になると、概念の区分自体が変化し、
ラテン人全体がローマ人と呼ばれるようにもなっていきます。
次回は、
こうしたラテン人とローマ人の違い、
ラテン人とローマ人という概念が互いにどのような関係にあるのか?
ということについて詳しく考えていきたいと思います。
・・・
このシリーズの次回記事:
ローマ人とラテン人の違いとは?①二つの民族の由来と地理上の関係
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