競技場のパラドックス②古代ギリシア版の相対性理論
前回の
「競技場のパラドックス①列車の右側では、左側よりも時間が速く進む」
においては、
列車同士の速度の関係が相対的であることから、速度の前提となっている
時間概念についても、
それが絶対的なものではなく、
相対的なものに過ぎないのではないか?
という疑義が呈されることになるという
ゼノンの運動のパラドックスの議論を紹介しました。
こうしたゼノンのパラドックスにおける
相対的な時間観は、
のちに、
ニュートンの絶対時間(absolute time、時間を伸び縮みせずに、どこでも同じように流れる絶対不変の何物にも依存しない客観的な存在として捉える時間観)
と対立することになる
ライプニッツの相対時間(relative time、時間は物体間の相対的な動きの関係性によって成り立っているとする時間観)
さらに、
ベルクソンの純粋持続(〔仏〕durée pure、デュレ・ピュール、すべての存在の時間的変化、質的多様性の根底にある間断なき内的な意識の流れ)
としての主観的時間観
などへとつながっていくことになりますが、
こうした時間の進み方の相対性についての議論は、
アインシュタインの相対性理論における
時間の進み方の相対性に関する議論にも通底するところがあるように思います。
アインシュタインの相対性理論における相対的な時間観
例えば、
日本では、竜宮城と玉手箱で有名なおとぎ話の
『浦島太郎』になぞらえてウラシマ効果とも呼ばれている
相対性理論における時間の進み方の遅れの議論では、
以下のような議論が展開されることになります。
二人の兄弟がいたとして、
弟は光速に近いスピードまで出る高速宇宙船で恒星間旅行へ出かけ、
兄は弟の帰りを地球で待っているとします。
すると、
光速に近い状態への加速と、
そこから地球上の慣性状態への減速(つまりマイナスの加速)を経て
再び地球へと降り立った兄と、
ずっと地球上の慣性状態にとどまり続けた弟では、
時間の進み方が大きく異なるという事態が生じることになります。
なぜならば、
アインシュタインの相対性理論に基づくと、
光速に近い状態へと加速していくプラスの加速や
光速に近い状態から地球上の慣性系へのマイナスの加速といった
高度な加速系においては、
時間の進み方が極端に遅くなることになるからです。
したがって、
光速に近い状態への高度な加速系を経て
地球上の慣性系へと帰還した兄においては、
地球上の慣性系にずっととどまり続けた
弟と比べて、時計の進み方がだいぶ遅くなることになります。
そして、それに伴って、
身体の成長や老化の進み方も
兄の方が弟よりも遅く進むことになり、
しばしば、実年齢としての
兄と弟の年齢関係が逆転するという現象も起きることになる
と考えられるのです。
つまり、
アインシュタインの相対性理論における
時間観においては、
加速系と慣性系において時間の進み方が異なっていくことになり、
加速(ないし重力)の大きさの度合いに従って、
時間が自在に伸び縮みするという
相対的な時間観が展開されることになる
ということです。
・・・
もちろん、
ゼノンの「競技場のパラドックス」における
単なる視点の相違と速度の相対性から導かれる
見かけ上の時間の相対性と、
現代物理学のアインシュタインの相対性理論における
一つの系全体に影響が及ぶ核心的な意味での時間の相対性とは、
その議論の実質的内容も、前提となる概念も
大きく異なるわけですが、
時間概念について、
それを絶対不変の何物にも依存しない
絶対的な存在として捉えるのではなく、
一定の条件や状況のもとで変化し、自在に伸び縮みする
相対的な概念として捉えるという
時間の相対性という着想の部分については、
両者の理念にはどこか通底するところがあると考えられます。
そういう意味では、
「競技場のパラドックス」におけるは、
ゼノンの運動のパラドックスの議論は、
遠く、アインシュタインの相対性理論へともつながる
時間の相対性という概念を提起した、
言わば、
古代ギリシア版の相対性理論のようなもの
として捉えることができるかもしれません。
・・・
このシリーズの前回記事:
競技場のパラドックス①列車の右側では、左側よりも時間が速く進む
このシリーズの次回記事:
飛ぶ矢は飛ばずのパラドックス①矢は瞬間の中で静止する
「エレアのゼノン」のカテゴリーへ