フィリッポス2世の即位とテーバイでの人質生活におけるテーバイの名将エパミノンダスからの軍事的教育
前回書いたように、紀元前700年ごろにギリシア人の一派にあったドーリア人の手によって建国されたのち、長い間、ギリシアの周辺の弱小国としての立場にとどまり続けていたマケドニア王国は、
その後、ペルシア戦争とペロポネソス戦争というギリシア世界における二つの大きな戦争の時代を通じてアテナイなどのギリシア本土の都市国家との交流を深めていくことによって経済的にも文化面においても大きく発展していくことになります。
そしてその後、マケドニア王国は、アレクサンドロス大王の父にあたるフィリッポス2世の時代に、軍事的にも大きく発展していくことによって、アテナイやスパルタといったギリシア本土の都市国家をも凌ぐ強大な軍事国家へと変貌を遂げていくことになるのです。
マケドニアの王権争いとテーバイの人質となったフィリッポス
地理的な面においてペルシア帝国とアテナイやスパルタなどのギリシア本土の都市国家たちとのちょうど中間に位置していたマケドニア王国では、
もともとは、アテナイなどのギリシア本土の都市国家のように民主政が行われていたわけでもなければ、ペルシア帝国のように強大な王権による支配が築かれていたわけでもなく、
世襲制の王のもとに従者として仕える立場にあった領地を持った貴族たちが軍事的に強い力と発言権を持つ貴族政治に近い王政のもとで統治が行われていたと考えられることになります。
そして、ペロポネソス戦争期における木材の交易やアテナイを中心とするギリシア本土の都市国家との交流によって経済的および文化的に国家が大きく発展していくことになった後も、
マケドニア王国においては、そうした貴族たちの権力闘争なかで国王の暗殺などが続いていくことによって政治的な混乱状態がしばらくの間続いていくことになります。
そして、そうしたマケドニアにおける王位をめぐる争いのなか、マケドニアの人々は、当時、友好関係にあったギリシア本土の都市国家であったテーバイに王家の内紛の調停を求めることになり、
マケドニアに調停者として派遣されることになったテーバイの将軍であったペロピダスは、これ以上マケドニアでの王権争いが激化してくことを防ぐために、貴族同士が争いをやめるための一種の保証として、
のちにマケドニア王位を継ぐことになるフィリッポスを含む30人の貴族の子弟たちを人質としてテーバイへと連れ帰ることになるのです。
テーバイの名将エパミノンダスによる軍事的教育とフィリッポス2世の即位
こうしてギリシア中部のボイオティア地方の中心都市であったテーバイへと人質として連れて行かれることになったフィリッポスは、
この地において、ペロピダスの盟友でもあり、テーバイをギリシア世界の覇者へと導いた高名な将軍であったエパミノンダスによってその軍事的な才能を見いだされることになります。
そしてその後、エパミノンダスのもとで軍事的な教育を受けることを許されることになったフィリッポスは、テーバイの名将であるエパミノンダスから、
ファランクスと呼ばれる重装歩兵の密集陣形の運用の仕方や、斜線陣と呼ばれるエパミノンダスによって考案された新たな戦術を学んでいくことによって、当時のギリシア世界における最新の軍事的知識に深く精通していくことになります。
こうしてテーバイでの人質生活を終えて、マケドニアへと帰国することになったフィリッポスは、
紀元前359年にマケドニアの北西に位置するイリュリア人との戦いで命を落としたペルディッカス3世の息子として王位についていた自らの甥でもある幼少の王であったアミュンタス4世の摂政の地位に就くことによってマケドニアの国政の実権を握っていくことになります。
そしてその後、マケドニアにおいて再び北方のイリュリア人との間での戦争の兆しが見え始めてくるとピリッポスは、マケドニアの人々からテーバイの名将エパミノンダスからも高く評価された軍事的な才能を強く請われることによって、
紀元前359年に、マケドニアの人々の推挙によってマケドニア王フィリッポス2世として即位することになるのです。