マケドニアの台頭とペルシア戦争期とペロポネソス戦争期の二段階にわたるアテナイなどのギリシア本土の都市国家との関係強化
前回書いたように、ギリシアの北方に位置するマケドニア王国は、紀元前700年ごろにスパルタやアルゴスといったギリシア本土の都市国家と同じギリシア人の一派であるドーリア人によって建国されることになるのですが、
ペルシアを中心とする東方世界と、アテナイやスパルタといったギリシア本土の都市国家の中間に位置するマケドニアは、その後、長い間、正式なギリシア人の一員とは見なされないままギリシアの周辺国としての地位にとどまり続けていくことになります。
しかし、こうしたギリシアの周辺国としてのマケドニアの立場は、ペルシア戦争とペロポネソス戦争というギリシア世界における二つの大きな戦争の時代を通じて大きく変化していくことになるのです。
アレクサンドロス1世のペルシア帝国への服従とペルシア戦争期におけるギリシア本土の都市国家との関係強化
紀元前499年に起きたイオニアのギリシア植民市によるアケメネス朝ペルシアへの反乱であるイオニアの反乱をきっかけとしてはじまったペルシア戦争では、
その後、紀元前492年と490年と480年の三回に分けて行われることになったペルシア帝国によるギリシア遠征によって、アテナイやスパルタといったギリシア本土の都市国家たちは国家の存亡の危機へと立たされていくことになります。
そして、こうしたペルシア戦争における紀元前480年の第三回ギリシア遠征においてマケドニアは、北方から陸路を通ってギリシア本土へと押し寄せてきた30万ものペルシアの大軍の行軍路に位置していたため、
ギリシアの諸都市からはもともと防衛の対象にも位置づけられていなかった辺境の地にあったマケドニアは、そのままなすすべもなくペルシアの支配下へと組み込まれていくことになります。
しかしその一方で、当時のマケドニアの王であったアレクサンドロス1世は、国家としてのマケドニアがペルシアの支配のもとに屈することになった後も、ペルシア軍を迎え討つために行軍していたギリシア軍の本隊に使者を放ち、
ギリシア本土へと押し寄せてくるペルシアの大軍の正確な規模を伝えることによってテルモピュライの戦いの前のギリシア軍の壊滅を防ぐことになります。
また、ペルシア軍とギリシア連合軍の最終決戦の舞台となった翌年のプラタイアの戦いの際には、開戦の直前にアレクサンドロス1世自らがアテナイの陣営へと赴き、
ペルシア軍の大将であるマルドニオスの戦略を密告してギリシア軍側の勝利に陰において大きく貢献していくことによって、ギリシア本土の都市国家との関係強化に努めていくことになるのです。
アルケラオス1世によるペラへの遷都とペロポネソス戦争期のアテナイとの友好関係
そしてその後、ペルシア戦争が終結した後のギリシア世界において、アテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟が衝突するギリシア世界を二分する戦いとなるペロポネソス戦争がはじまることになると、
デロス同盟の海軍の勢力が自分たちが位置するエーゲ海の北方の領域にまで押し寄せてくることを恐れたマケドニアは、当初は、デロス同盟の盟主であるアテナイに対して敵対的な姿勢を見せていくことになります。
しかしその後、新たにマケドニアの王の座につくことになったアルケラオス1世は、ギリシア最大の先進国であったアテナイと結ぶことによる経済的および文化的な利益を重視して外交政策を大きく転換させていくことになり、
森林地帯が広がる広大な領土を持つマケドニアは、伐採によって樹木が乏しくなっていたアテナイを中心とするギリシア本土の都市国家に対して軍船の材料となる木材を供給することによって経済的に大きく発展していくことになります。
そしてその一方で、アルケラオス1世は、それまでのマケドニア王国の首都であったアイガイからペラへと遷都を行ったうえで、
マケドニアの新しい都となったペラには、友好関係を結ぶことになったアテナイからギリシア三大悲劇詩人の一人であったエウリピデスなどの数多くの芸術家や文化人たちが招かれていくことになり、
マケドニアは学問や文化さらには重装歩兵などの軍事改革の面においてもアテナイを中心とするギリシア本土の先進文明の制度や技術を広く取り入れていくことによって文化的そして軍事的にも発展していくことになるのです。