施餓鬼の具体的な意味と由来とは?『救抜焔口陀羅尼経』で語られる餓鬼道へと落とされた衆生たちを救う無量の施しの教え

盂蘭盆会(うらぼんえ)あるいはお盆と呼ばれる715または815を中心とする前後4日間にわたって行われる祖先の霊や死者の魂の供養を行う夏の期間の仏教行事においては、

施餓鬼(せがき)と呼ばれる餓鬼道の世界に落ちて飢えと渇きに苦しんでいる死者の魂を供養するために、そうした餓鬼道で苦しむ衆生に食事を供えて弔う法会(ほうえ)すなわち仏教の儀式が行われていくことになりますが、

それでは、

こうした施餓鬼という言葉はそもそも具体的にどのような意味を表す言葉であると考えられ、施餓鬼の法会はどのような仏教の経典における説話に由来する儀式であると考えられることになるのでしょうか?

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施餓鬼という言葉の具体的な意味と人間の魂が輪廻転生する六道の一つとしての餓鬼道の位置づけ

そうすると、まず、

こうした施餓鬼と呼ばれる法会は、別名では、施食会(せじきえ)と呼ばれることもあるように、

餓鬼道へと落とされて飢えと渇きに苦しんでいる餓鬼たちに対して、供物として食事を施すことによってその業苦に満ちた魂を救済して功徳を積むために行われる仏教儀式であると考えられることになります。

そもそも、古代インド思想を源流とする仏教の世界観においては、

人間の魂は、自らの生前の行いによって背負おうことになる業やカルマなどと呼ばれる宿命にしたがって、

天道人間道修羅道畜生道餓鬼道地獄道という六道(ろくどう)と呼ばれる六種類の世界のうちで輪廻転生を繰り返していくと捉えられていくことになるのですが、

このうち、餓鬼道と呼ばれる世界は、そうした六道における最下層の世界にあたる地獄界に次ぐ二番目に悪い世界として位置づけられていて、

私利私欲を貪り、自らの豊かさを他者へと分け与えずに、困っている人々に施しの手を差し伸べなかったといった自らの生前の行いによって餓鬼道へと落とされた死者たちは、

そうした餓鬼道とよばれる災いと苦しみに満ちた世界のうちで、口にした食べ物も水もすぐに炎を上げて燃え尽きてしまうことによって、永遠に満たされることがない飢えと渇きに苛まれ続けていくことになると語られていくことになるのです。

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『救抜焔口陀羅尼経』で語られる餓鬼道へと落とされた衆生たちを救う無量の施しの教え

そして、

こうした餓鬼道へと落とされた亡者たちの話が語られている仏教の経典としては、

『救抜焔口陀羅尼経』(ぐばつえんくだらにきょう)『餓鬼事経』(がきじきょう)あるいは『盂蘭盆経』(うらぼんきょう)といった経典の名が挙げられることになると考えられることになるのですが、

このうち、はじめに挙げた『救抜焔口陀羅尼経』、より正確には、『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経』(ぶっせつぐばつえんくがきだらにきょう)と呼ばれる経典において語られている説話のなかでは、

釈迦に仕えた十大弟子のうちの一人で、多聞第一と称されていた高僧であり、

パーリ語やサンスクリット語ではアーナンダ、漢語における音写では阿難陀(あなんだ)と呼ばれ、一般的には阿難(あなん)という略称で知られている尊者が登場する以下のような説話のうちに、

現代における施餓鬼の法会直接的な由来となった話が語られていると考えられることになります。

・・・

多聞(たもん)、すなわち、仏の教えを最も多く聞き万事のことに深く精通していた高僧であった阿難が、

ある時、いつものように一人で静かな場所で坐禅を組んで瞑想に耽っていると、突然、目の前に焔口(えんく)という名の口から炎を吐き髪は炎のように乱れ、痩せこけた姿に目だけが光る恐ろしい姿をした餓鬼が現れ、

お前は三日後に死んで、私のように醜い餓鬼の姿に生まれ変わるだろう。」「それが嫌ならば餓鬼道に落ちたすべての衆生幾千もの僧侶たちに食事を施さなければならない。」

という呪いの言葉と無理難題を突き付けて、阿難のもとを去って行ってしまうことになります。

しかし、

僧侶の身である阿難には、千をも超えるような人々に食事を分け与えることができるような大量の金銭の蓄えもなければ

そもそも、餓鬼道へと落とされた亡者たちにはいくら食べ物を施しても口に入る前に燃え尽きてしまうのだから、焔口が言ったように餓鬼道に落ちたすべての衆生たちの腹を満たすことなど到底できるはずもないため、

そうしたことに気づいた阿難は、ほとほと困り果てて、ついに自らの師である釈迦のもとを訪れて助けを求めることにします。

そして、

こうした阿難が語る餓鬼の話の一連の顛末を静かに聞いていたお釈迦様は、

餓鬼の口へと数多くの食べ物を運んで行っても食べる前に燃え尽きてしまうので何の意味もないが、彼らの腹を満たすには、ただ一器の食物を供えるだけで十分である。

ただ一器の食物を供えて「加持飲食陀羅尼」(かじおんじきだらに)の経文を一心に唱えて仏の加護を受けることによって、その食べ物は尽きることにない無量の食物となり、それが餓鬼道に落ちたすべての衆生たちと、この世に生きるすべての僧侶たちへの無量の施しとなるのである。

と説いていくことになります。

そして、こうした釈迦の教えを聞いた阿難は、

その教えの通りに、餓鬼道へと落とされて飢えと渇きに苦しんでいる餓鬼たちに対してただ一器の食事のみを供物として施し、心からの経文を唱えることによって、彼らの魂を業苦から救い出し

その大いなる功徳によって、施主である阿難の寿命も延びて、一説には120歳にまで至ったともされている天寿を全うすることになったと語り伝えられていくことになるのです。

・・・

そして、以上のように、

こうした『救抜焔口陀羅尼経』『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経』と呼ばれる仏教の経典において記されている餓鬼道へと落された亡者たちに対して阿難が行ったとされる釈迦の教えに従った食事の施し方が大本の由来となって、

施餓鬼と呼ばれる法会における、餓鬼道へと落とされて飢えと渇きに苦しんでいる餓鬼たちに対して、供物として食事を施すことによってその業苦に満ちた魂を救済して功徳を積むという意味を持つ仏教の儀式のあり方が形づくられていくことになっていったと考えられることになるのです。

・・・

次回記事:施餓鬼とお盆との関係とは?仏教の経典に基づく由来の共通点とお盆の時期に施餓鬼の法要が行われるようになった理由

前回記事:お盆の行事が夏に行われる理由とは?夏安居の終わりの日の僧侶たちへの施しの儀式とお盆の時期との関係

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