ユリウス暦の具体的な仕組みと歴史的な経緯とは?カエサルのエジプト平定から太陽暦の制定までの一連の経緯と第七の月の改称
地球が太陽のまわりを一周する期間を一年とする暦法のあり方のことを意味する言葉である太陽暦は、
古代エジプトにおいて用いられていた世界最古の太陽暦にあたるエジプト暦にはじまり、東方世界においてはペルシア暦として伝わっていくことになる一方で、
ヨーロッパを中心とする西方世界においてはユリウス暦とグレゴリオ暦と呼ばれる暦法のあり方へとつながっていくことになると考えられることになります。
そこで、今回の記事では、
こうしたユリウス暦とグレゴリオ暦と呼ばれるヨーロッパを代表する二つの太陽暦のうち、前者のユリウス暦と呼ばれる暦法のあり方が、具体的にどのような仕組みと由来を持つ暦法のあり方であるのか?といったことについて、
まずは、
こうしたユリウス暦と呼ばれる暦法の制定者にあたるローマの軍人にして優れた政治家でもあったユリウス・カエサルのエジプト平定からユリウス暦の制定へと至る歴史的経緯といった観点から詳しく考察していきたいと思います。
カエサルによるエジプト平定からユリウス暦の制定へと至る歴史的経緯
紀元前49年、ガリア総督であったユリウス・カエサル(Julius Caesar)は、政敵であったポンペイウスとの決着をつけるために、「賽(さい)は投げられた」という有名な言葉と共に軍を率いてルビコン川を渡り、ローマを制圧したのち、
ポンペイウスの本拠地であったギリシア東部で行われたファルサルスの戦いにおいて、ポンペイウスを破り、古代ローマ共和国の内部における自らの覇権を確立することになります。
そして、その後、カエサルは、
ポンペイウスの残党を追ってエジプト北部のアレクサンドリアへと上陸し、この地において、エジプトの覇権をめぐって互い争っていたクレオパトラ7世とプトレマイオス13世の姉弟の間の王位継承権をめぐる争いへと介入していき、
紀元前47年のナイルの戦いにおいてプトレマイオス13世が率いるプトレマイオス朝エジプトの軍隊を打ち破ったカエサルが率いる共和政ローマ軍は、クレオパトラをエジプトの女王として即位させることによってエジプトをローマの支配下へと組み入れていくことになります。
そして、
紀元前46年、エジプトの女王クレオパトラと彼女との間に生まれた息子カエサリオンを伴ってローマへと帰還したカエサルは、
ローマ市民による熱烈な歓迎をもって迎えられ、この地で壮麗な凱旋式を行ったのち、終身独裁官に就任することによって、実質的な皇帝ともいえるような絶対的な権力を確立していくことになるのですが、
そうしたカエサルがエジプトを平定し、その権力が絶頂期へと達することにもなった紀元前46年に、エジプトのアレクサンドリアの天文学者であったソシゲネスの提議を受けて、
それまでの太陰暦がベースとして用いられたローマ暦を改暦して、エジプト暦をもとにした太陽暦に基づくローマにおける新たな暦法のあり方として、ユリウス・カエサル自身の名が冠されたユリウス暦と呼ばれる新たな暦法が制定されることになったと考えられることになるのです。
ユリウス暦の具体的な仕組みとカエサルの名前にちなんだ第七の月の改称
そして、
こうしたユリウス暦と呼ばれる太陽暦に基づくローマにおける新たな暦法においては、エジプト暦にならって、
1年の日数は365日とされたうえで、4年に1回の間隔で平年より1日だけ日数が多い年のことを意味する閏年(うるうどし)をもうけることによって、現代の世界において広く用いられている一般的な暦のあり方ともほとんど変わらないかなり正確な暦が定められることになったと考えられることになります。
また、
こうした古代ローマ共和国におけるユリウス暦の制定の後に、
ユリウス・カエサルは、それまでクインティリス(Quintilis)と呼ばれていた自らの誕生月にあたる第七の月を、新たな暦の制定者である自分自身の名前にちなんで、ユリウス(Julius)と改称することになるのですが、
現代においても、英語において7月のことを意味する単語としてはJuly(ジュライ)という単語が用いられているということには、もともとはこうした由来があったと考えられることになるのです。
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次回記事:英語の1月にあたるJanuaryの由来とは?ローマ神話における双面神ヤヌスと古代ローマの都市国家としての基盤を築いた始原の神
前回記事:ペルシア暦において春分の日が元日とされる理由とは?ゾロアスター教とイラン暦やシリア暦などのイスラム圏の太陽暦との関係
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