純粋理性と理論理性と思弁理性の関係とは?カント哲学において互いに不可分な関係にある三つの理性の働き
前回の記事で書いたように、18世紀のドイツの哲学者であるカントの主著である『純粋理性批判』においては、
事物や現象の理論的な認識のあり方に関わる理性の働きである理論理性と呼ばれる概念を中心に人間の認識のあり方についての哲学的な探求が進められていくことになるのですが、
こうした理論理性と呼ばれる理性の働きのあり方については、それと似たような概念として思弁理性といった表現も用いられていくことになります。
カント哲学においては、こうした純粋理性と理論理性と思弁理性と呼ばれる三つの理性の概念は、どれもほぼ同じような意味を表す同義語的な概念として位置づけられていくことになるのですが、
それでは、より厳密な意味においては、
こうした純粋理性と理論理性と思弁理性と呼ばれる三つの理性の概念同士の間には、具体的にどのような関係性が成立していると考えられることになるのでしょうか?
経験を可能とする条件となる純粋なる論理形式としての純粋理性の存在
まず、冒頭でも述べたように、
理論理性(theoretische Vernunft、テオレティッシェ・フェアヌンフト)と呼ばれる理性の働きのあり方は、
人間の認識における事物や現象についての理論的な認識のあり方に関わる理性の働きのことを意味していると考えられ、
それは特に、
人間の心における知性的な働きのなかでも、普遍的な概念から特殊的な存在者を導き出していく推論能力を中心とする思惟能力のあり方のことを指してこうした概念が用いられていると考えられることになります。
それに対して、
『純粋理性批判』という著作の題名の内にも含まれている純粋理性(reine Vernunft、ライネ・フェアヌンフト)という概念においては、
理論理性における理性の働きの純粋性が強調されることによってこうした表現が用いられていると考えられることになるのですが、
こうした純粋理性という概念の内に含まれている「純粋」という言葉は、この場合、「経験に拠らずに」あるいは「論理的形式のみによって」といった意味を表していると考えられることになります。
カント哲学においては、
具体的な経験に先立って存在している人間の認識における論理的な形式のあり方のことを指して、
「ア・プリオリ」あるいは「純粋」といった表現が用いられていくことになるのですが、
つまり、そういった意味では、
こうした純粋理性と呼ばれる概念においては、理論理性における理性の働きのあり方が、人間の認識における経験を可能とする条件となっている純粋なる論理形式に基づく知性の働きであるということを強調するために、あえてこうした「純粋」という表現が用いられていると考えられることになるのです。
純粋理性の形而上学的な探求への適用としての思弁理性の位置づけ
そして、
こうした純粋理性としての理論理性の働きは、『純粋理性批判』における「超越論的弁証論」の部門のような思弁的な分野においては、さらに、
思弁理性(spekulative Vernunft、スペクラティーフ・フェアヌンフト)と呼ばれる理性の働きのあり方としても捉え直されていくことになります。
こうした思弁理性という概念の内に含まれている「思弁」という言葉は、もともと、「観想」という言葉と共に、古代ギリシア語におけるテオリア(theoria)という言葉の訳語として位置づけられる言葉であり、
こうした「思弁」という言葉は、一義的には、経験に拠らずに純粋な論理的思考の働きのみによって物事の真の姿を認識しようとする心の働きとして定義されることになります。
『純粋理性批判』においては、
こうした思弁理性としての理性の働きは、神の存在や魂の不死といった人間の認識におけるいかなる経験の対象ともなり得ない形而上学的な存在への探求へと進んでいくという越権行為を行うことによって誤謬推理へと陥っていくことになるという議論が展開されていくことになるのですが、
つまり、そういった意味では、
こうした思弁理性と呼ばれる概念においては、理性の働きのあり方が、神の存在や魂の不死といった形而上学的な存在への探求へと進んでいくという理論理性における思弁的な思考の側面を強調するという意味において、こうした「思弁」という言葉が用いられていると考えられることになるのです。
・・・
以上のように、
純粋理性と理論理性と思弁理性と呼ばれる三つの理性の働きは、
どれも人間の認識における事物や現象についての理論的な認識のあり方に関わる推論能力を中心とする思惟能力のあり方のことを意味する概念として捉えられことになるのですが、
事物や現象についての理論的な認識としての理論理性のあり方が、
人間の認識における経験を可能とする条件となっている純粋なる論理的な形式として捉えられるときには、それは純粋理性という概念として捉えられ、
そうした純粋理性としての理論理性の働きのあり方が、
神の存在や魂の不死といった形而上学的な存在への探求へと結びつけられていくときには、それは思弁理性という概念として捉えられていくことになるというように、
こうした三つの理性の働きは、互いに不可分な関係性のうちに位置づけられる理性の働きのあり方のことを示す概念として捉えていくことができると考えられることになるのです。
・・・
次回記事:感性と悟性と理性の違いとは?カントの認識論哲学における「直観」と「総合」と「統一」という三段階の認識作用
前回記事:理論理性と実践理性の違いとは?カント哲学における二つの理性の働きのあり方の定義
「カント」のカテゴリーへ
「哲学の概念」のカテゴリーへ