「人間万事塞翁が馬」は「にんげん」と「じんかん」のどちらの読み方が正しいのか?呉音と漢音における意味と発音の違い
前回書いたように、「人間万事塞翁が馬」という言葉の由来となった「塞翁が馬」の故事は、
もともと、紀元前2世紀頃の古代中国において、前漢の初代皇帝である劉邦(りゅうほう)の孫にあたる劉安(りゅうあん)の手によって編纂された
『淮南子』(えなんじ)と呼ばれる古代中国の思想書の第十八巻「人間訓」において具体的な記述がなされている言葉であると考えられることになります。
そして、こうした「塞翁が馬」という言葉の原典である『淮南子』の「人間訓」の記述に基づいた場合、
「人間万事塞翁が馬」という言葉の読み方には、通常通りに「にんげんばんじさいおうがうま」と呼ぶ場合と、「じんかんばんじさいおうがうま」と読む場合の二通りの読み方があると考えられることになるのですが、
それでは、
こうした「人間万事塞翁が馬」という言葉にある「人間」という漢字は、「にんげん」と読むのと「じんかん」と読むのとでは、どちらの方がより正しい発音のあり方であると考えられることになるのでしょうか?
「人間」という言葉の呉音と漢音における意味と発音の違い
そもそも、
「塞翁が馬」の故事だけに限らず、一般的な表現においても、「人間」という言葉に対しては、「にんげん」という読み方のほかに、「じんかん」という読み方も用いられることがあり、
「人間」(にんげん)と言うと、それは一義的には、生物の種族として人類のことや、その一員である一人一人の人物のことを意味することになるのに対して、
「人間」(じんかん)と言った場合には、それは、人が住んでいる世界、すなわち、世間や世の中のことを指して、こうした表現が用いられることになると考えられることになります。
そして、
こうした「人間」という同じ漢字が用いられる言葉に対して、「にんげん」と「じんかん」という二通りの読み方が存在している理由としては、
「人間」(にんげん)という読み方は、
5~6世紀頃の南北朝時代の古代中国における南朝の歴代王朝から朝鮮半島の百済などを通して伝えられた
呉音(ごおん)と呼ばれる南方系の古い漢字の読み方にしたがった発音のあり方であるのに対して、
「人間」(じんかん)という読み方の方は、
7~8世紀頃になって、中国の統一王朝から遣隋使や遣唐使などを通じて、奈良時代から平安時代初期の日本に伝えられた
漢音(かんおん)と呼ばれる北方系の新しい漢字の読み方にしたがった発音のあり方であるという点が挙げられることになります。
つまり、
こうした「人間」という言葉に関しては、
「にんげん」という一般的な読み方の方が、呉音と呼ばれる漢字のより古い読み方に基づく発音のあり方であり、
そこでは、一人一人の人物や、その集合体である人類全体、さらには、そうした人々が生きている世間や世の中といった広い意味を表す言葉として「人間」という言葉が捉えられているのに対して、
「じんかん」という漢音に基づく読み方がされている場合には、
それは、人々が住んでいる世界、すなわち、世間や世の中というより限定された意味においてのみ、こうした表現が用いられることになると考えられることになるのです。
『淮南子』「人間訓」における人の世の利害と禍福についての記述
それでは、結局、
「人間万事塞翁が馬」という言葉については、それは、上述した二通りの意味のどちらの意味において「人間」という言葉が用いられているのか?ということについてですが、
「塞翁が馬」の故事においては、塞翁と呼ばれる一人の人物がたどった災いが福へ、福が災いへと次々に転じていく数奇な人生の流れが示されていると考えられるので、
それは、塞翁という一人の人物の人生のあり方と、その人物の生き方について語られている故事として捉えることもできると考えられることになるのですが、
その一方で、
そうした塞翁の人生において生じた災いや福の一つ一つは、まさに、人々が住んでいる世間や世の中において生じている出来事ということになるので、
それは、塞翁が生きている人の世で日々起きている災いや福といった様々な出来事について語られている故事として捉えることもできると考えられることになります。
ちなみに、
「塞翁が馬」の故事の原典となった書物である『淮南子』の注釈書のなかでは、「人間訓」の章についての注釈について、
「人世の利害禍福について述べたもの」という説明がなされているものがあるのですが、
そういった意味では、
人々が住んでいる世界、すなわち、世間や世の中といった意味で用いられている「人間」(じんかん)という漢音の読み方に基づく表現の方が、
こうした『淮南子』の「人間訓」における「塞翁が馬」の故事の意味に、よりぴったりと合致する表現であるとも解釈することができると考えられることになるのです。
・・・
以上のように、
「塞翁が馬」の故事は、塞翁という一人の人物の人生についての故事としてみることも、塞翁が生きている人の世で起こる様々な出来事の捉え方についての故事としてみることも、どちらとも可能ではあると考えられることになるのですが、
この故事の原典にあたる『淮南子』の「人間訓」で語られている思想内容に基づいた場合、そこでは、一義的には、人々が住んでいる世界、すなわち、世間や世の中における利害や禍福のあり方についての捉え方が語られていると解釈することができると考えられることになります。
そして、
「人間万事塞翁が馬」という言葉における「人間」という漢字の読み方については、
上述したように、人間(にんげん)という言葉自体にも、人物や人類といった意味のほかに、世間や世の中といった意味は含まれることになるので、
基本的には、「にんげんばんじさいおうがうま」と読む通常の読み方でも問題はないと考えられることになるのですが、
こうした「塞翁が馬」の故事の原典にあたる『淮南子』の「人間訓」で語られている思想内容に直接沿う形で、それが人の世で起こる災いや福といった様々な出来事の捉え方を示している故事であることをより強調して表現するためには、
あえて、より限定された意味で用いられている漢音の読み方に基づいて、「じんかんばんじさいおうがうま」と読むのも、この言葉の正しい読み方であると考えられることになるのです。
・・・
次回記事:「塞翁が馬」の二つの意味とは?哲学的な意味における「塞翁が馬」の解釈と荘子の万物斉同と逍遥遊の思想との関係
前回記事:「塞翁が馬」とは何か?古代中国の哲学書である淮南子に記されている物事の表面的な禍福に囚われない泰然自若とした生き方
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