自然における合目的性と秩序に基づく神の目的論的証明、トマス・アクィナスの「第五の道」における神の存在証明の議論
前回書いたように、トマス・アクィナスの『神学大全』における「五つの道」のうちの四番目の道にあたる「第四の道」においては、
世界の内にある様々な事物の間に成立する存在のあり方の量的な差異に基づいて、それらのいっさいの事物が現に存在するための原因となる最も完全な存在としての神の実在性が論証されていくことになります。
そして、それに対して、最後の道である「第五の道」においては、
今度は、そうした世界の内に存在する様々な自然的事物の内に見いだされる合目的性という新たな観点から、神の存在証明についての議論が展開されていくことになります。
「第五の道」における自然の合目的性と秩序に基づく神の存在証明
トマス・アクィナスの「第五の道」における神の存在証明の議論では、
まずは、議論の前提として、人間などの意志と知性を持った存在によってつくり出される道具や建築物といった人工物と呼ばれるような存在は、
作り手自身の意志によって、特定の用途や目的に適(かな)うようにつくり上げられているという合目的性を持った存在であると捉えられることになります。
そして、例えば、
大空を舞う鷹の美しい翼や、一度視界の内に捉えた獲物を決して離すことのない眼光鋭い目といった自然的な造形についても、
それは、鷹が空を飛び、上空から下界を見下ろすという目的に適った、まさしく合目的的な存在であると捉えることができるように、
世界の内に存在する動物や植物といった様々な自然的事物のなかには、人間の手によって作り出されたものではなくとも、その造形自体が合目的性を持った構造をしていると捉えられるものが数多く存在すると考えられることになります。
そして、
空を飛ぶための翼や、物を見るための目といった自然的な造形自体は、それが鷹自身の意志によって作り上げられたものでもなければ、人間の手によって作り出された人工物でもない以上、
こうした合目的性を持った自然的事物を生み出した作り手となる存在は、世界の内にはいっさい見いだすことができないと考えられることになりますが、
その一方で、
それらの圧倒的であると共に、極めて精巧で繊細な構造をしている自然の造形のすべてが単なる偶然の積み重ねによってつくられているとは到底考えられないとも考えられることになります。
つまり、
こうした鷹の美しい翼や、眼光の鋭い目といった合目的性を持った自然の造形のすべては、
人間のような存在によってつくり出された人工物でもなければ、かと言って、単なる偶然的な存在でもないと考えられることになり、
したがって、それらの合目的性を持った自然的事物は、
人間といった通常の知性的存在を凌駕するような超越的な知性を持った何らかのな存在の意志によってつくり出された必然的な存在であると考えられることになります。
そして、こうした自然の合目的性の由来をめぐる一連の議論に従うと、
そうしたすべての自然的事物における合目的性と秩序の根拠として、それらの自然的事物の造り手にして設計者となる知性的な存在としての神が実在することが不可欠となると結論づけられることになるのです。
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以上のように、
トマス・アクィナスの『神学大全』に出てくる「五つの道」のうちの最後の道である「第五の道」における神の存在証明の議論においては、
世界の内に存在する様々な自然的事物の内に見いだされる合目的性と秩序に焦点が当てられたうえで、
すべての自然的事物をそれぞれの目的に適った合目的性を持った存在として秩序づけている知性的な存在としての神の実在性が論証されることによって、
一般的に目的論的証明と呼ばれている神の存在証明の議論が展開されていると考えられることになるのです。
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次回記事:トマス・アクィナスの『神学大全』の「五つの道」における神の存在証明のあり方の違いとそれぞれの論証の区分のまとめ
前回記事:完全性と存在の量的差異に基づく神の存在証明、トマス・アクィナスの「第四の道」における神の存在証明の議論
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