神の存在論的証明の具体的な問題点とは?概念のみから対象の実在を導く誤謬推理としての批判、アンセルムスの神の存在証明④
前回書いたように、アンセルムスと同時代を生きた神学者であるガウロニによって提示されているアンセルムスの神の存在証明に対する反論の議論においては、
人間の理解の内に存在する概念自体からその概念が指し示す対象自体が実在することを論証しようとするアンセルムスが神の存在証明において用いている論証方式自体が強く批判されていると考えられることになります。
それでは、こうした神の存在論的証明と呼ばれるアンセルムスの神の実在性の論証の議論において見られるような概念のみから対象の実在を導く論証のあり方が、一般的に誤謬推理として批判されることが多い理由として、
このようなタイプの論証方式には、具体的にどのような問題点があると考えられることになるのでしょうか?
美の女神アフロディテは「最も美しい」がゆえに実在する
アンセルムスによる神の存在論的証明の議論においては、
神を「それよりも大きいものを考えることができないもの」と定義したうえで、
そのような神が人間の頭の中にだけ存在する場合より、現実にも実在する方がより大きなものとなることから、
そうした概念として定義される神は、現実においても実在するという結論が導かれるという形で、神の実在性についての論証が行われていくことになります。
すると、こうしたアンセルムスの神の存在証明において用いられている上記のような論証のあり方が正しいとした場合、
こうした存在論的証明と呼ばれる神の実在性の論証の議論で用いられているものとまったく同じ論証の形式を用いることによって、
例えば、ギリシア神話の物語の中の登場人物である美の女神アフロディテについても、その実在性の論証を行うことができてしまうと考えられることになります。
まず、ギリシア神話の中に出てくる女神アフロディテは、ローマ神話ではビーナスにあたる美と愛の女神であり、トロイア戦争の発端となったパリスによる三美神の審判によって最も美しい女神として選ばれてもいるように、
アフロディテは、この世に存在するどんなものよりも美しい最高の美を備えた存在、すなわち、「それよりも美しいものを考えることができない存在」であると定義することができると考えられることになります。
そして、一般的に、
何か美しい事物や光景について、それを自分の頭の中だけの単なる記憶や想像としてイメージする場合よりも、その光景が現実に自分の目の前に広がっている方が、その光景の美しさがより強く感じられるという意味において、
美しいものは、それが自分の頭の中のイメージとしてのみ存在する場合よりも、現実に自分の目の前に実在している場合の方がその美しさが増していくと考えられるので、
美の女神アフロディテは、彼女が人間の頭の中にだけ存在する場合より、現実にも実在する場合の方がより美しいものとして存在していると考えられることになります。
すると、上記のようなアンセルムスの神の存在論的証明の議論において用いられているものと同じ論法に基づくと、
「それよりも美しいものを考えることができない存在」であると定義された女神アフロディテは、彼女が人間の頭の中にだけ存在する場合より、現実にも実在するときの方がより美しいものとなる以上、
そのような最高の美を備えるものとして定義された女神アフロディテは、現実においても実在するという結論が導かれることになってしまうと考えられることになるのです。
カフカの『変身』の毒虫は「最も醜い」がゆえに実在する
また、こうした論証のあり方は、必ずしも、
「最も大きい」、「最も美しい」、「最も強い」といった肯定的な性質を有する概念についてだけにしか適用することができないという制限があるわけではないので、
例えば、「最も醜い」、「最も愚か」といった否定的な性質を有する概念についても、同様の論証の議論を適用することが可能であると考えられることになります。
例えば、
カフカの中編小説である『変身』のなかに出てくるような醜い巨大な毒虫のような存在を頭の中に思い浮かべたうえで、そうした巨大な毒虫のような存在を「それよりも醜いものを考えることができないもの」として定義したとすると、
そうした「それよりも醜いものを考えることができないもの」として定義される毒虫は、人間の頭の中にだけ存在する場合より、現実にも実在する方がより醜いものとなると考えられることになります。
すると、上記のような論法にそのまま従うと、
「それよりも醜いものを考えることができないもの」として定義された毒虫は、それが人間の頭の中にだけ存在する場合より、現実にも実在するときの方がより醜いものとなる以上、
そのような最も醜い毒虫の存在を頭の中でイメージしてしまった瞬間、その毒虫という存在自体が現実の世界の内にもポンと出現してしまうというような奇妙が現象が引き起こされることになってしまうと考えられることになるのです。
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以上のように、
アンセルムスの神の存在論的証明の議論において用いられている概念のみから対象の実在を導く論証のあり方を
神だけではなく、美の女神アフロディテや、最も醜い毒虫といった現実には実在しないはずの対象を含む様々な対象に対しても同様に適用していくと、
アンセルムスが神の定義として挙げている「大きい」あるいは「偉大である」といった性質の他にも、「美しい」、「醜い」、「強い」、「愚か」といったほとんどあらゆる性質によって定義される概念について同様の実在性の論証の議論が成立することになってしまうと考えられることになります。
つまり、アンセルムスの神の存在論的証明の議論に見られるような概念のみから対象の実在自体を論証しようとする議論のあり方には、
「最も偉大な最大の存在」として定義される神の概念だけではなく、「最も美しい存在」「最も強力な存在」「最も醜い存在」といった他の様々な性質によって定義される概念についても、
それが「最も~である」という最上級の形容詞によって語ることができる概念であるとするならば、
その概念が指し示す対象が、本来、現実において実際には存在しないはずの対象であったとしても、その対象自体の現実における実在性が自動的に論証されることになってしまうという矛盾が生じてしまうという点に具体的な問題点があると考えられることになるのです。
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次回記事:神の存在論的証明を擁護するアンセルムスの再反論の議論①、人間の思考における概念についての二段階の理解のあり方とは?
前回記事:神学者ガウロニによるアンセルムスの神の存在証明の議論の批判、アンセルムスによる神の存在証明③
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