神学者ガウロニによるアンセルムスの神の存在証明の議論の批判、アンセルムスによる神の存在証明③

前回書いたように、神の存在論的証明と呼ばれる神の実在性について論証の議論において、11世紀のイギリスの神学者にしてスコラ哲学者でもあるアンセルムスは、

神は知性や能力といったあらゆる属性において最も偉大で限りなく大きな存在であるという意味において、

「神はそれよりも大きいものを考えることができないものである」という定義を示していると考えられることになります。

そして、アンセルムスは、上記のような定義によって示される神の概念のみに基づいて、神の実在性の論証を行っていくことになるのですが、

このように、論証の対象となる概念の論理的な分析のみによって、その概念が指し示す対象自体の実在性をも論証してしまおうとするこうした神の存在論的証明(本体論的証明)と呼ばれる論証のあり方は、一般的には、

概念のみから対象の実在を導く誤謬推理として、今回取り上げるガウロニに代表される同時代の神学者からも、また、カントなどに代表される後世の哲学者たちからも広く批判されていくことになります。

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神学者ガウロニによるアンセルムスの神の存在証明の批判

詳しくは前々回の記事で書いたように、アンセルムスの主著である『プロスロギオン』における神の存在証明の議論では、

まず、上述した「神はそれよりも大きいものを考えることができないものである」という神の定義自体は、神を信じない人々にとっても理解できる概念であることから、

このような形で定義される神の概念自体は、あらゆる人間の理解の内に存在することが可能な概念であると主張されることになります。

そして、そうした「それよりも大きいものを考えることができないもの」として定義される神は、人間の理解の内にだけ存在する場合より、現実にも実際に存在するとした方がより大きなものとなることから、

そうした概念として定義される神は、現実においても実在するという結論が導かれるという形で、神の実在性についての論証が行われていくことになります。

しかし、こうした一連の論証の議論に対して、

アンセルムスと同時代を生きた神学者であるガウロニは、

「どのような虚偽のもの、あるいはそれ自身ではどのような形においても存在しないものであっても、人間がそれについて語り、それについて理解することができるとするならば、それは同じように人間の理解の内に存在すると言える」

と述べたうえで、

ある概念が人間の理解の内に存在するということから、その概念の内容が指し示す対象自体も現実に実在するということを導き出そうとする論証のあり方自体に対して異議を唱えていくことになります。

つまり、ガウロニは、上記のようなアンセルムスの神の存在証明の論証方式に従うと、

キリスト教における神の存在だけではなく、明らかに現実には存在しない対象であるギリシア神話の登場人物や、サンタクロース、あるいは宇宙人といった存在などについても、

それが人間の理解の内にある存在であるとするならば、その概念が指し示す対象の実在性について、同等に論証することができてしまうという意味において、

アンセルムスが上記の神の存在証明の議論において用いた論証方式自体を強く批判していると考えられることになるのです。

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以上のように、

神学者ガウロニによるアンセルムスの神の存在証明の議論の批判においては、

人間の理解の内に存在する概念自体からその概念が指し示す対象自体が実在することを論証しようとすると、結局、明かに現実には存在しないはずの対象についても同等に実在性の論証ができてしまうという観点から、

アンセルムスが神の存在証明に用いた論証方式のあり方自体に強い批判の視線が向けられていると考えられることになります。

そこで、次回の記事では、こうしたアンセルムスの神の存在証明の議論が、今回取り上げた神学者ガウロニによる批判の主張に見られるように、一般的には、概念のみから対象の実在を導く誤謬推理として批判されることが多いより具体的な理由について、さらに詳しく考察していきたいと思います。

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次回記事:神の存在論的証明の具体的な問題点とは?概念のみから対象の実在を導く誤謬推理としての批判、アンセルムスの神の存在証明④

前回記事:神が「それよりも大きいものを考えることができないもの」として定義される理由とは?アンセルムスによる神の存在証明②

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