旧約聖書と新約聖書における神の定義の違いのまとめ、新約聖書だけにある六つの神の定義と旧約聖書だけにある二つの神の定義
前々回と前回の記事で詳しく書いてきたように、旧約聖書のなかでは強く提示されていながら、新約聖書においては語られることが少なくなり徐々にフェードアウトしていった神の定義のあり方としては、
人格神や万軍の主といった神についての定義のあり方が挙げられると考えられることになります。
そして、それに対して、新約聖書では、こうした旧約聖書においてだけ語られている神の定義のあり方と入れ替わるようにして、新約聖書における独自の新たな神の定義のあり方が示されていくことになるのですが、
こうした旧約聖書と新約聖書における神の定義の違いについて総括していくと、それは、以下のような形でまとめることができると考えられることになります。
新約聖書だけにある六つの神の定義と旧約聖書だけにある二つの神の定義
まず、前々回と前回の記事でも取り上げた
「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。」(「イザヤ書」8章13節)
「主は、勇士のように出で立ち、戦士のように熱情を奮い起こし、叫びをあげ、鬨(とき)の声をあげ、敵を圧倒される。」(「イザヤ書」42章13節)
といった旧約聖書の「イザヤ書」における記述にも見られるように、
旧約聖書においては、戦いを司る万軍の主と呼ばれ、熱情(ねたみ)といった負の感情をも有する人格神としての神の姿が色濃く示されていると考えられることになります。
それに対して、
新約聖書においては、こうした万軍の主や、負の感情も持った人格神としての神の姿についての記述が非常に少なくなり、そうした旧約聖書における神の定義のあり方が徐々に薄らいでいくのに比例して、
新約聖書独自の神の存在のあり方についての新たな定義を示す以下のような記述がでてくることになります。
例えば、新約聖書の「エフェソの信徒への手紙」における
「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」(「エフェソの信徒への手紙」第4章6節)
といった記述からは、普遍性としての神の定義が導かれることになりますし、
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(「ヨハネによる福音書」第1章1節)
「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(「ヨハネによる福音書」第4章24節)
といった「ヨハネによる福音書」の記述においては、言(ロゴス)と霊(精神的存在)としての神の定義が示されていると考えられることになります。
また、
「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」(「ルカによる福音書」第1章47節)
「すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません。」(「ローマの信徒への手紙」第2章10~11節)
「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。」(「コリントの信徒への手紙一」第14章33節)
といった記述からは、救い主・平等なる神・平和の神といった神の定義が導かれ、
「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」(「ヨハネの黙示録」第1章8節)
という「ヨハネの黙示録」の記述においては、はじまり(アルファ)と終わり(オメガ)すなわち、始動因と目的因としての神の存在のあり方が示されていると考えられることになります。
こうした新約聖書の「福音書」や「書簡集」さらには「黙示録」などにおける記述に見られるように、
新約聖書においては、普遍性、言(ロゴス)と霊(精神的存在)、救い主・平等なる神・平和の神、さらには、始動因と目的因といった
旧約聖書の段階においてはあまり語られることがなかった新約聖書における独自の新たな神の定義のあり方が示されていると考えられることになるのです。
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以上のように、
旧約聖書と新約聖書における神の定義の違いのあり方についてまとめていくと、
旧約聖書でだけ語られていて、新約聖書においてはほとんど示されることのない定義のあり方としては、戦神としての万軍の主という神の呼び名や、負の感情も含めた人格神としての神の定義のあり方といった二つの神の定義が挙げられるのに対して、
新約聖書の段階において新たに強調されるようになっていく神の定義のあり方としては、普遍性・言(ロゴス)・霊(精神的存在)・救済者・平等なる神・平和の神・始動因・目的因といった全部で八つの神の定義を挙げることができると考えられることになります。
以前に「旧約聖書と新約聖書に共通する十の神の定義のあり方」の記事で書いたように、旧約聖書と新約聖書の両方に共通する神の定義のあり方としては、
創造主・全知全能・唯一神・善性・完全性・永遠性・至高者・契約の神・裁きの神・光明神という全部で十の神の定義を挙げられることができると考えられることになるのですが、
こうした旧約聖書と新約聖書の双方において一貫して強く語られている神の定義のあり方がキリスト教における神の定義の中心とされたうえで、
旧約聖書から新約聖書へのキリスト教思想の展開においては、旧約聖書においては強く提示されていた人格神や万軍の主といった神の定義のあり方が新約聖書においては徐々にフェードアウトしていくなかで、
普遍性・言(ロゴス)・霊(精神的存在)・救済者・平等なる神・平和の神・始動因・目的因といった新約聖書における新たな神の定義のあり方が加えられていくことによって神という概念自体の洗練がさらに進められていき、
それによって、
新約聖書の段階においては、神という存在のあり方が、より理念的な存在として捉えられていくようになっていったと考えられることになるのです。
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次回記事:神の存在証明とは何か?キリスト教の神の定義に基づく定義された神の実在性の論証
前回記事:旧約聖書における万軍の主から新約聖書の平和の神への移行、旧約聖書と新約聖書における神の性質の違い②
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