旧約聖書と新約聖書に共通する十の神の定義のあり方とは?キリスト教における神の定義⑥、神の定義とは何か?⑧

旧約聖書における十二の神の定義の記事で書いたように、旧約聖書において記されている神の存在のあり方についての様々な記述からは、

創造主・全知全能・善なる神・唯一神・永遠不変・完全者・至高者・人格神・裁定者・光明神・契約の神・万軍の主

という十二の神の定義を導き出すことができると考えられることになります。

それに対して、新約聖書における十八の神の定義の記事で書いたように、新約聖書における記述からは、

唯一神・全知全能・創造主・善性・完全性・普遍性・永遠性・至高者・救済者・言(ロゴス)・霊(精神的存在)・契約の神・裁きの神・平等なる神・平和の神・光明神・始動因・目的因

という十八の神の定義を導き出すことができると考えられることになるのですが、

こうした旧約聖書と新約聖書の両者に共通する神の定義のあり方としては、

創造主全知全能唯一神善性完全性永遠性至高者契約の神裁きの神光明神

という全部で十の神の定義を挙げられることができると考えられることになります。

そして、こうした十の神の定義について言及されている旧約聖書と新約聖書のそれぞれにおける具体的な記述のあり方を実際に見比べてみると、それは以下のようになります。

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旧約聖書と新約聖書に共通する十の神の定義のあり方についての具体的な記述

まず、上述した旧約聖書と新約聖書の両者に共通する十の神の定義のあり方の冒頭に挙げた創造主という神の定義のあり方については、例えば、

旧約聖書では、「初めに、神は天地を創造された。」(「創世記」1章1節)という記述の形として示されているのに対して、

新約聖書では、「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」(「ヨハネの黙示録」第14章7節) といった記述において、同様に、創造主として神の定義のあり方が示されていると考えられることになります。

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そして、次の全知全能という定義のあり方については、

旧約聖書では、「主はアブラムに現れて言われた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。』」(「創世記」17章1節)と記されているのに対して、

新約聖書では、「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」(「ヨハネの黙示録」第14章7節)といった記述が挙げられることになります。

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その次の唯一神という定義のあり方については、

旧約聖書では、「思い起こせ、初めからのことを。わたしは神、ほかにはいない。わたしは神であり、わたしのような者はいない。」(「イザヤ書」46章9節)といった記述において示されているのに対して、

新約聖書では、「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である」(「マルコによる福音書」第12章29節)といった記述が挙げられることになります。

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また、善性という定義については、

旧約聖書では、「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。』」(「創世記」3章4~5節)といった記述からうかがい知ることができ、

新約聖書では、「イエスは言われた。『なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。』」(「マルコによる福音書」第10章18節)といった記述においてはっきりと示されていると考えられることになるのです。

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そして、次の完全性という神の定義のあり方については、

旧約聖書では、「主は岩、その御業は完全で、その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく、正しくてまっすぐな方。」(「申命記」 32章4節)といった記述において、

新約聖書では、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(「マタイによる福音書」第5章48節)といった記述において、そうした定義が示されていると考えられることになります。

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また、永遠性という神の定義については、

旧約聖書では、「わたしは知った。すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない、と。」(「コヘレトの言葉」3章14節)といった記述から、

新約聖書では、前述した全知全能としての神の定義のところでも取り上げた「神である主今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」(「ヨハネの黙示録」第14章7節)といった記述から、そのような定義を導き出すことができると考えられることになります。

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次の至高者という神の定義については、

旧約聖書では、「彼らが悟りますように。あなたの御名は主ただひとり、全地を超えて、いと高き神であることを。」(「詩編」83章19節)という記述において、

新約聖書では、「天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(「ルカによる福音書」第1章35節)(旧約聖書「詩編」83章19節)といった記述において、そうした神の定義が表れていると考えられることになります。

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また、契約の神という定義については、

旧約聖書では、「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。」(「創世記」17章7節)という記述において、

新約聖書では、「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。」 (「ローマの信徒への手紙」第123)といった記述において、そうした定義が示されていると考えられることになります。

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その次の裁きの神という定義については、

旧約聖書では、「わたしを裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのもわたしの神である。」(「イザヤ書」49章4節)という形で示されているのに対して、

新約聖書では、冒頭で述べた創造主としての神の定義のところでも取り上げた「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」(「ヨハネの黙示録」第14章7節)といった記述において示されています。

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そして最後に、光明神という神の定義のあり方については、

旧約聖書では、「神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。」(「創世記」1章3~5節)といった記述において示されていると考えられるのに対して、

新約聖書では、「神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です」(「テモテへの手紙一」第6章15~16節)という記述において、そうした神の定義のあり方を見いだすことができると考えられることになるのです。

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以上のように、

旧約聖書と新約聖書の両方に共通する神の定義のあり方としては、

創造主全知全能唯一神善性完全性永遠性至高者契約の神裁きの神光明神

という全部で十の神の定義を挙げることができると考えられることになります。

そして、その一方で、詳しくは次回改めて考察するように、冒頭で挙げた旧約聖書と新約聖書のそれぞれにおける主要な神の定義のうち、片方には含まれていてもう一方には含まれていない神の定義のあり方からは、

旧約聖書と新約聖書の両者における神の存在についての位置づけのあり方の違いを見いだすことができると考えられることになるのです。

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次回記事:旧約聖書の熱情の神から新約聖書の理性的な神への転換、旧約聖書と新約聖書における神の性質の違い①

前回記事:新約聖書における十八の神の定義のまとめ、キリスト教における神の定義⑤、神の定義とは何か?⑦

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