旧約聖書における十二の神の定義とは?キリスト教における神の定義①、神の定義とは何か?③
旧約聖書において神の存在のあり方についての具体的な記述がなされている箇所について、順番に調べ上げていくと、
そのうちの主要なものとしては、前回取り上げたような旧約聖書における20箇所の記述を挙げることができると考えられることになります。
そして、こうした20箇所の記述のうちから、神についての否定的な定義が述べられている2箇所の記述を除いた18箇所の記述において示されている神の存在のあり方についてまとめていくと、
それは以下で述べるような旧約聖書における十二の神の定義へと集約していくことができると考えられることになるのです。
世界に光をもたらす創造主にして善なる人格神としての神の定義
まず、旧約聖書における最初の記述でもあり、前回取り上げた20箇所の記述の冒頭でも取り上げた
「初めに、神は天地を創造された。」
(旧約聖書「創世記」1章1節)
という記述においては、その言葉がそのまま示す通り、世界の創造者、すなわち、創造主としての神の定義がなされていると考えられることになります。
ちなみに、神が天と地を創造し、人間自身をも含むすべての存在をつくり上げた創造主であるということは、旧約聖書の他の箇所においても語られていて、例えば、
「主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です。」
(旧約聖書「列王記下」19章15節)
といった記述や、
「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。」
(旧約聖書「詩編」100章3節)
といった旧約聖書の他の箇所の記述においても、こうした創造主としての神の定義のあり方は繰り返し語られていくことになります。
・・・
そして、上記の「創世記」の冒頭部分の次の箇所で述べられている
「神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。」
(旧約聖書「創世記」1章3~5節)
という記述においては、天地を創造した神は、自らが創り出した世界に光をもたらす光明神でもあり、光を善としてそれを闇から分かつ善なる神でもあるということが述べられていると考えられることになります。
こうした善なる神についての言及がなされていると解釈することができる記述については、旧約聖書の他の箇所においても見いだすことでき、例えば、
「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。』」
(旧約聖書「創世記」3章4~5節)
という記述においては、神が知性において善悪を知る神であることが、
「あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも、あなたの先祖に誓われた契約を忘れられることもない」
(旧約聖書「申命記」4章31節)
「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」
(旧約聖書「ヨナ書」4章2節)
といった記述においては、神が深い道徳的な感情を持った存在であるという意味において善なる神であることが示されていると考えられることになります。
そして、上記の「申命記」や「ヨナ書」における記述や、下記の「出エジプト記」における
「あなたはほかの神を拝んではならない。主はその名を熱情といい、熱情の神である。」
(旧約聖書「出エジプト記」34章14節)
といった記述からは、旧約聖書における神が、慈しみや憐み、さらには、熱情といった激しい感情も持つような人格神であるということが語られていると考えられることになるのです。
裁定者にして契約の神、万軍の主でもある全知全能の神
また、
「わたしを裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのもわたしの神である。」
(旧約聖書「イザヤ書」49章4節)
とあるように、前述したような道徳的な感情をもった人格神としての善なる神は、
人間の行いに対して裁きと恩恵を与える神、すなわち、裁定者としての神でもあるということも語られていると考えられることになります。
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そして、再び旧約聖書の最初の書である「創世記」へと戻ると、
「主はアブラムに現れて言われた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。』」
(旧約聖書「創世記」17章1節)
とも語られていますが、その他にも、
「神と共に知恵と力はあり、神と共に思慮分別もある。」
(旧約聖書「ヨブ記」12章13節)
とも語られているように、こうした記述においては、旧約聖書における神があらゆる知恵と力とを司る全知全能の神であるということが示されていると考えられることになります。
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また、上記の「創世記」の箇所の次の部分では、
「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。」
(旧約聖書「創世記」17章7節)
と語られていますが、ここでは、神がアブラハムの子孫とイスラエルの民、ひいては、人類全体に対して契約を結び、
自らを信仰し、自らの定めた掟に従って正しく生きる人々に対して恵みと救いを与える契約の神であるということが示されていると考えられることになります。
さらに、
「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。」
(旧約聖書「イザヤ書」8章13節)
といった記述に見られるように、そうした全知全能の存在としての神は、
万軍の主、すなわち、あらゆる力を司り、神を信仰する心正しき人々に勝利をもたらす戦いと勝利の神でもあるということが語られていると考えられることになるのです。
至高者にして完全者でもある永遠不変なる存在としての唯一神
そして、
「思い起こせ、初めからのことを。わたしは神、ほかにはいない。わたしは神であり、わたしのような者はいない。」
(旧約聖書「イザヤ書」46章9節)
という記述や、
「彼らが悟りますように。あなたの御名は主。ただひとり、全地を超えて、いと高き神であることを。」
(旧約聖書「詩編」83章19節)
といった記述においては、旧約聖書における神が一なる神、すなわち、唯一神であることが語られていて、
そうした一なる存在としての神は、上記の「詩編」の記述にもあるように、並ぶ者なき至高者でもあると捉えられることができると考えられることになります。
そして、
「主は岩、その御業は完全で、その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく、正しくてまっすぐな方。」
(旧約聖書「申命記」 32章4節)
とあるように、そうした至高者としての神は、真実と正義の神にして完全なる存在、すなわち、完全者であり、
「わたしは知った。すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。」
(旧約聖書「コヘレトの言葉」3章14節)
「高くあがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。」
(旧約聖書「イザヤ書」57章15節)
とあるように、そうした神は永遠不変なる存在でもあると定義づけられることになるのです。
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以上のように、
前回取り上げた旧約聖書の18箇所の記述において示されている神の存在のあり方からは、
創造主、全知全能、善なる神、唯一神、永遠不変、完全者、至高者、人格神、裁定者、光明神、契約の神、万軍の主
という十二の神の定義を導き出すことができると考えられることになります。
そして、こうした十二の神の定義に基づいて、キリスト教やユダヤ教における神、すなわち、旧約聖書における神のあり方の具体的なイメージを描き出していくことができると考えられることになるのです。
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