三段論法に基づく「人間は神ではない」という命題の形而上学的な論証、妥当な三段論法の形式を用いた推論の具体例③
前回書いたように、キリスト教やギリシア神話、神道やゾロアスター教といった古今東西のあらゆる宗教に共通する神の性質である「不死なる存在」としての神の定義からは、
三段論法の形式を用いた推論によって、「偶像は神ではない」という命題の形而上学的な論証を行うことができると考えられることになります。
そして、こうした神の定義からは、前回と同様の三段論法の形式を用いることによって、「人間は神ではない」という命題の形而上学的な論証を行うこともできると考えられることになるのです。
「人間は不死ではない」という命題の三段論法の形式を用いた論証
神の不死性に基づいて「人間が神ではない」という命題を論証するためには、その前提として、まず、人間の不死性を否定する命題の論証を行っておくことが必要となります。
すると、まず、
死とは生の対概念であり、生きとし生けるものは、それが生命をもった存在である限り、必然的にいずれは死が訪れるように、
「あらゆる生物の命には限りがある」すなわち、「すべての生物は不死ではない」と定義することができると考えられることになります。
そして、当たり前のことではありますが、人間は無生物ではなく、生物に分類されるため、「すべての人間は生物である」と定義されることになるので、
上記の「人間」と「生物」と「不死性」という三つの概念をめぐる二つの命題に基づいて、以下のような三段論法の推論を展開することができると考えられることになります。
大前提:すべての生物は不死ではない。(全称否定命題(E))
小前提:すべての人間は生物である。(全称肯定命題(A))
結論:ゆえに、すべての人間は不死ではない。(全称否定命題(E))
そして、
上記の三段論法の推論は、「24種類の妥当な三段論法の形式」の記事でまとめた前提が真であれば結論も必然的に真となる24通りの妥当な三段論法の形式のうちの第一格EAE式を用いた演繹的推論となるので、
この推論は、前提が真である限り、三段論法の形式のみによって結論も必然的に真となる推論として認めることができると考えられることになります。
三段論法に基づく「人間は神ではない」という命題の形而上学的な論証
そして、次に、
上記の妥当な三段論法の形式を用いた演繹的推論によって得られた「すべての人間は不死ではない」という命題と、冒頭で述べた不死なる存在としての神の定義、すなわち、「すべての神は不死である」という二つの命題からは、
今度は、以下のような三段論法の推論を展開することができると考えられることになります。
大前提:すべての神は不死である。(全称肯定命題(A))
小前提:すべての人間は不死ではない。(全称否定命題(E))
結論:ゆえに、すべての人間は神ではない。(全称否定命題(E))
そして、
上記の三段論法の推論は、「24種類の妥当な三段論法の形式」のうちの第二格AEE式を用いた演繹的推論となるので、
この推論は、前提が真である限り、三段論法の形式のみによって結論も必然的に真となる推論として認めることができると考えられることになり、
以上のような二段階にわたる三段論法を用いた推論に基づく一連の演繹的推論によって、「すべての人間は神ではない」という命題が真であるということを形而上学的に論証することができると考えられることになるのです。
・・・
以上のように、
「すべての人間は生物である」という命題と、「すべての生物は不死ではない」という命題、そして、「すべての神は不死である」という命題の三つの前提となる命題が真であることに基づいて、
それぞれの前提となる命題に対して二段階にわたる妥当な三段論法の形式を用いた演繹的推論を適用することによって、
最終的に、「すべての人間は神ではない」という命題が真であることが必然的に帰結することになると考えられることになります。
つまり、以上のような経緯を一言でまとめると、
神と人間というそれぞれの概念についての定義を吟味したうえで、それぞれの定義を前提とする三段論法の推論を展開することによって、
「人間は神ではない」という命題についての形而上学的な論証がなされることになると考えられることになるのです。
・・・
次回記事:人間は不完全であるがゆえに神ではないのか?それとも不死ではないがゆえに神ではないのか?
前回記事:三段論法に基づく「偶像は神ではない」という命題の形而上学的な論証、妥当な三段論法の形式を用いた推論の具体例②
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