デジャブ(既視感)におけるセピア色の認識としてのメタ的な認知感覚のあり方
前回書いたように、デジャブ(既視感)やジャメブ(未視感)といった感覚はは、実際に生じている現象に直接対応する現実の認識自体ではなく、
そうした現実の認識を包括するメタ認識のレベルにおいて生じる認知感覚の異常として捉えることができると考えられることになります。
そして、こうした人間の認識のメタレベルにおいて生じている認知感覚のあり方について、それが具体的にはどのようなものであると考えられるのか?ということについて、より分かりやすく表現するとするならば、
それは、例えば、一種のバイアスや色眼鏡のようなものとして捉えることができると考えられることになります。
デジャブ(既視感)におけるセピア色の認識としてのメタ的な認知感覚
例えば、
デジャブ(既視感)と呼ばれる自分にとって初めての未知の経験であるはずの認識を既知の認識であると感じてしまう認知感覚を例として取り上げてみるとするならば、
そうしたデジャブ(既視感)と呼ばれる現象が、人間の認識のメタレベルにおいて生じている認知感覚の異常として捉えられる場合、
それは、現実の認識の対象となっている個々の事柄に対してではなく、そうした個々の事柄全体を包括する現実の認識全体に対して、その場で目に映っている物事のすべてが自分にとって見慣れた既知の認識であるように感じられてしまうという包括的なバイアスがかかっている状態であると解釈することができると考えられることになります。
言うなれば、こうしたデジャブ(既視感)と呼ばれる認知感覚の異常においては、
自分の目に映っている現状の認識全体に色褪せたセピア色の認識のバイアスがかかってしまっていて、
本来それが自分にとって新しい未知の認識だということは頭では分かっているものの、そうした現状の認識全体が既によく見知っている既知の認識であるように感じられてしまい、まるで現在にいながら過去の認識をのぞき込んでいるような錯覚に陥ってしまっている状態にあると考えられることになります。
少し別な言い方をするならば、
世界を覗き込む時に、何の色にも染められていない無色透明のニュートラルな状態でそれを認識しているのではなく、
セピア色のレンズが入った色眼鏡で世界の内を覗き込んでいるような状態がデジャブ(既視感)と呼ばれる認知感覚が生じている状態であると考えられることになるということです。
認識を感情的に色づけるメタ的な色眼鏡の一つとしてのデジャブ
以上のように、デジャブ(既視感)やジャメブ(未視感)といった人間の認識のメタレベルにおいて生じている認知感覚について考えていくと、
人間が何らかの物事を認識するときには、そこでは単に認識の対象となる物事の形や大きさといった客観的な要素だけが機械的に把握されているだけではなく、
自分にとって馴染みのある見慣れた認識と、あまり馴染みのない見知らぬ認識、さらには、自分にとって愛着のある好ましい認識と思い出したくもない不愉快な認識というように、認識に対する様々な主観的な色付けも同時になされるていると考えられることになります。
つまり、
人間の認識においては、個々の認識の対象についても、そうした認識対象全体を包括するメタ認識のレベルにおいても、
あらゆる認識は、こうした無意識の内に読み込まれている感覚的あるいは感情的な色付けを常に伴う形で成立していると考えられるということです。
そして、
こうした人間の認識における様々な感覚的・感情的な色付けのあり方の中でも、
認識の対象となる個々の事柄に対してではなく、そうした様々な事柄を含んだ一連の経験、あるいは、そうした一まとまりの認識全体を包括する形で働いているメタ的な色眼鏡の一つとして、
デジャブ(既視感)やジャメブ(未視感)と呼びうるような認知感覚が成立していると考えられることになるのです。
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次回記事:ジャメブ(未視感)と物忘れや認知症の症状との違いとは?
前回記事:デジャブ(既視感)とジャメブ(未視感)の意味の違いと共通点、メタ認識に生じる認知感覚の異常としてのデジャブとジャメブ
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